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 06.05.16 


今、教育基本法を見つめる

 ※敗戦60年

 敗戦後60年、憲法を変え、教育基本法を変えていこうとする動きが何故生まれるのでしょうか。
 敗戦により痛手を受けた日本人は、戦前の軍部主導による国家主義と絶対天皇制による国家神道による統治をやめ、民主主義による統治を国民の総意のもとに統(す)べることを始めようとしました。
 明治維新後の大変短い期間に、教育勅語と軍人勅諭によって、江戸時代までの日本人の穏やかで豊かな意識を急速に国家神道と軍国主義を信奉するようなものに変えました。
 しかし、敗戦により焦土と化した国とカリスマ的な天皇という求心力(?)を失った日本は、戦勝国アメリカの文化に傾倒していきます。よりどころを失ったとはいえ、それでも、国としての体面は、憲法と教育基本法により、国民主権の統治を国家に要求することと国民自身の自覚を求めるものであったはずです。



 
※愛するということ

 今、問題になる教育基本法の改変点は、国を愛するという文言をどういれるかどうか、という論議です。あざといという他はありません。なぜならば、私が何かを愛するというご縁に恵まれるのは、愛しなさいという要求によるものでないのは自明のことです。
 頼まれて母を愛し、子を愛する子も親もいないでしょう。同じように頼まれて郷土を愛する人もいないでしょう。親、子、郷土など、いずれも手に触れることのできる具体的で体験的な対象です。
 今、問題になる国を愛するということが、このような具体的なものでなく、国家というものを措定しやすいということです。国家とは頭で考えだした抽象的で観念的なものです。しかしその国家は一旦、具体的な権力を持つと国民に向けて屈服することを要求し、そして支配しようとします。
 例えば、維新後、国家は天皇を臣民の父とする疑似家族制を掲げ、臣民を赤子(セキシと読む)と表現し、当時、一般の人は見たこともない宮中の奥にいた天皇を具体的な父親の如きものとして押しつけました。
 その結果、国家至上主義を臣民に押しつけ、天皇のためのという言葉の下に、戦争を正当化し、臣民のいのちを赤紙一枚(召集令状のこと)で殺人者とさせ、また死に至らしめました。



 
※国を愛することと人間を喪うこと

 かつて念仏に生きることが権力や差別、そして暴力による人間支配を越えた平等な生き方であることを示した法然上人(一一三三〜一二一二)や親鸞聖人(一一七三〜一二六二)は当時の国家権力によって弾圧を受け、罪人とされ流罪になり、またその仲間は死罪として首を斬られました。
 暴力的な権威主義や国家主義に対して、仏教の教えや浄土真宗の生き方は相容れないものです。しかし、それらを簡単に排除すべきものであると決めつけることよりも、そうした迷いのあり方を自分の生き方を通して、自省的に見つめ、なおかつ、私の生き方の上にも愚かな思い上がった姿があることに気づかされ、そのような社会や思想を相対化することが念仏による人生でしょう。
 かつて、国を愛するということを押しつけられ、たとえ世間的な体裁であれ受け入れた一般社会の風潮は、天皇のために死ぬこと、国家のために死ぬことを生き甲斐だとしました。
 その結果、自立した自分の視点を持てないことになり、結果として人間に対して蛮行をもたらすということはどういうことかという正当な判断ができず、アジアの人を殺し犯し辱め、さらに投降したはずの米兵を殺しました。天皇や国を愛する行為だと信じて行った、あるいはやらされた行為の結果、極東軍事裁判で処罰された多くの若者がいました。まさに、国を愛するということを押しつけられた犠牲者でした(石垣島事件など)。



 
※権力という不透明な力

 教育という営みをするときに、権力に従いましょうという隠れたメッセージを持つ「国を愛しましょう」というスローガンは、今、諸勢力のせめぎ合いでかろうじて均衡を持っているものの、その内側にある権力は、何かがきっかけになった時にはその力を発揮し人びとを支配するものであり、極めて危険きわまりないものといえるでしょう。
 いずれの時代もこの一点を見失うとき、仏教をはじめ様々な思想や立場は権力や財力の意味づけとして足元をすくわれ自らそれらに加担していきます。
 何より加担してしまった時には、仏教をより所にするのではなく、権力や財力の名のもとに、自分の存在意味を確認してしまっているのです。そしてそれは自分自身の本来の立場を放棄していることになるのです。



 
※私は教育基本法をどうするのか

 もう既に時代は動き始めています。無論、権力や財力、そしてそれらが内包する暴力、武力の方向です。主体的な生き方を見出さないと、見せかけの力に寄り添って行こうとするからです。
 それに対抗しようとするのは、面倒なこと、辛いことです。無論、立派な人間だから、優れた人間だから基本法の改変に反対を述べるという立場もあることはよく分かります。しかし、多くの人間にとっては今の生活に大きな影響の無さそうなことには首をつっこみたくないのです。
 では何がそれに対峙させるのでしょう。何が、それを課題とさせるのでしょう。それが、私が私を生きようとする姿です。その生き方を仏教に縁のある人びとは、念仏の信心に生きると言ってきたのです。
 教育基本法をどのようにするのか、そして、どのようにしたいのかという発想こそが、仏教に出遇ったところから生まれたものだと言えるのはこういう意味でしょう。

 教育基本法の全文をここに記し、お互いの生き方を考えていく視点となればと願います。


教育基本法【目次】
  昭和22・3・31・法律 25号  

 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

(教育の目的)第1条 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の方針)第2条 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。
(教育の機会均等)第3条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであって、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって就学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。
(義務教育)第4条 国民は、その保護する子女に、9年の普通教育を受けさせる義務を負う。
2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料は、これを徴収しない。
(男女共学)第5条 男女は、互いに敬重し、協力しあわなければならないものであって、教育上男女の共学は、認められなければならない。
(学校教育)第6条 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
(社会教育)第7条 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によって教育の目的の実現に努めなければならない。
(政治教育)第8条 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
(宗教教育)第9条 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。
(教育行政)第10条 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

 万木 洋治