6月23日、最高裁は、小泉首相の靖国参拝をめぐる訴訟のうち、大阪高裁の上告審について判決を下しました。しかし、本裁判で私たちが注目していた、首相の靖国参拝が憲法違反にあたるか否かの司法判断には立ち入ることはなく、門前払いの結論でした。
原告の「戦没者をどのように回顧し祭祀(さいし)するか、しないかに関して自ら決定し、行う権利・利益を侵害された」と主張に対し、第二小法廷は、不快の念を抱いた程度にとどまり、裁判で損害賠償を求めるレベルには達していない、との立場を取ったのです。
首相の靖国参拝は、国のあり方を問う大きな問題であり、その是非について多くの国民が関心を持って注目しています。小泉首相の姿勢は、憲法違反にあたるか否かの、政治的な判断基準への挑戦をしていると見ることができるのではないかと思います。
法の番人である最高裁は、国民に対して憲法判断を示す務めがあるのではないかと思います。宗教に関する国のあり方を左右する重大問題に関して、言い換えれば、民主主義の根幹にかかわる問題について、実害がでるまでは司法判断をする必要がないとする今回の判決は、三権分立の基本を放棄しているとしか思えません。無責任です。
この度の最高裁の判決は、今後の同様の裁判の判例として影響力を持つことになるのでしょう。首相の靖国参拝が合憲であると認められたわけではないのですが、政治的な判断基準がますます緩むのではないかと危惧します。個々の実害をどう判断するのかに窮しているうちに、国のあり方が大きく変化していくことにならなければよいのですが。悲観的にならざるを得ません。
6月27日、最高裁は高松と東京の2件の裁判の上告を棄却しました。判決文でなくとも、三権の長としての付帯意見を添えてもよいのではないかと思われるのですが、一番楽な道を選択したということなのかもしれません。考えたくはないのですが、だれもなにも言えなくなる時代の予兆なのでしょうか。
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小林 泰善 |
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