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 06.08.16 


平和と信教の自由を犯す重大な瑕瑾(かきん)
〜小泉首相の憲法違反=靖国参拝〜 


 敗戦の日、(06.8.15)小泉首相は、憲法違反の靖国参拝を行った(過去の裁判では、一度も合憲の判決は出ていない。違憲判決の疑い、あるいは違憲判決があるだけである)。
 世間の視点は、アジア外交、A級戦犯などが主となり、戦争責任を含む歴史認識とそこに深く関わった「国家神道と国家」という「宗教と政治」の問題が前面に出てこない(あるいは、それを視点にする論客が少なく、また一方で日本人の意識に登らない)。

 戦争を頂点として暴力による問題解決は正義を掲げることで相手を殺し、その領土と財産を奪いながらも、正義の名の下に、自らの蛮行を正当化し、それにより人間性を喪失し、他者との理解を阻害するという性格を持つ。

 東京招魂社(靖国神社)は明治維新直後(1869)、国家(明治政府と天皇)によって造られ、陸海軍が維持を担当し、侵略戦争を正当化する精神的支柱となり、さらに宗教的に戦死を「名誉の戦死」と美化する装置として靖国は積極的に機能してきた。
 それは鎮守の杜(もり)のような自然発生的な宗教施設ではなく、為政者によって「喜んで国家のために死ぬ人間」を造りあげる機関だった(これは中曽根元首相の自民党軽井沢セミナーでの談話(1985)で、はしなくも露呈した)。

 敗戦後、民主主義と人権擁護の憲法の立場から、各宗教教団は宗教法人法によって一律に同格とされた。
 戦前のように国家が特定の宗教、すなわち靖国神社だけを擁護したり、それが特別な宗教機関であるかのような思いこみを国民に与えたり、あるいはそれを利用することなどを回避したり、否定するために制定されたのが、日本国憲法である(現実に裁判の判決にもあったように、首相の靖国参拝は、同神社が特別な存在であるかのような誤った印象を人びとに与え、同神社HPへのアクセス数を増やさせ、またこの敗戦の日には20万人近い参拝となった)。
 つまり、国家の特定宗教への接近や宗教利用禁止を確かなものにするために、あるいは、国民が国家やそれに携わるものの暴走をおさえるために、憲法には政教分離の原則(第二十条)があり、国家による特定宗教への公金支出の制限(第八十九条)が規定され、また国家権力に携わる立場のものがこの憲法を遵守すべきことを明記した最高法規(第九十八条)がある(今、憲法を改悪し、戦争が出来る国家にしようとして、国を愛する心を強要しようと憲法を書き換えようとするのは、この憲法が国民を縛るためにあるのでなく、国家や権力に関わるものを制限するものであることが知らされていないために起こる陳腐な状況である)。

 親鸞聖人の浄土真宗という教えに出遇い念仏申す生活が生まれるところに、人は自らの内にある暴力性、差別性が知らされる。
 世間の常識的立場なら、それを無くし、立派な人間になれと相手に押しつけたり、自らそれが出来るかのような思い上がった主張が展開されるだろうが、念仏という行を通して真実信心に目覚めることをかなめとする親鸞聖人の教えに出遇うということは、そのような教条的な立場をとれなくなる。
 縁次第で、今、靖国神社を擁護している日本の一部の人びとのように、暴力性を正当化したり、他国への侵略行為を美化していたかも知れないのが私自身の姿であるということが知らされる。
 それは念仏の信心により迷妄から立ち上がって共に目覚めて生きていこうとする方向性、すなわち往生する利益によってこの実人生の上に定まってくる。
 世間では宗教とは単なる「こころの問題」であるというように疑問もなく、また曖昧なまま受けとめられているが、親鸞聖人の浄土真宗という教えは、こころの中にとどまることで自己納得するものではない。

 阿弥陀仏の本願の第一願から第四願にあるように、地獄・餓鬼・畜生や表層的な違いによって差別する迷妄の姿に気づかされ、真実に背く自分を教えられるところに、その迷妄が造り上げている社会の暴力性や差別性という問題を今まで気づかずに温存・助長していた私のあり方が転じられたならば、そこに社会への問いかけや関わりが生まれる。
 何故、法然上人や親鸞聖人は、流罪という罪人と指弾されたのかと考える時、その念仏の信心という生き方が、それまでの社会が常識的にしていた能力や出自による非平等とそこに生じる暴力による支配に対する深い気づきと批判が内在されていたからであろう(そうした世俗の構造の上に成り立つ仏教《顕密仏教》から超えたのが念仏である)。
 念仏とは、この世の非人間的あり方をどこどこまでも問いにする生き方が私に点(とも)され、その点された灯りは、次から次へと広がっていく。

 敗戦の日にあたり、人間の愚かさ、それは自分の愚かさを見つめ、社会の愚かさ、そしていのちの脆さ、尊さに改めて、向き合うことが出来るのも、念仏という行道、つまり具体的な生き方に恵まれたお陰といえよう。

 人は迷妄する自分に目覚めることなく正義を掲げるところに他者を悪と見なし、果てしなく排除と差別、そして殺戮を繰り返してきた。
 しかし、まったく同じ人間の中に、釈尊がそうであり、また親鸞聖人がそうであったように、平等に尊いいのちをお互いの姿に見出してきた。

 自己の権力拡大を正当化するために宗教を利用することは、ブッシュ大統領やアルカイダだけではなく、戦時中、国家神道にも、それに屈し戦争協力した仏教教団にも見られる。今、念仏によって、いのちあるものの普遍的な生き方を求める者は、国家が又宗教を利用することは糾(ただ)されることであると問いにして立ち上がっていく生き方が私にできるという発見の感動とそこから行動が生まれることであろう。



 万木 養二