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 06.11.01 


『教育基本法』における「宗教教育」は
どうあるべきか

1、公立学校での宗教の扱い

 高等学校における必修科目の履修漏れが問題になっている。朝日新聞社の集計では、41都道府県の404校に広がった。
 本来履修しなければならない科目をごまかしてまで、高校は受験勉強の効率を上げたいと考えたようである。推薦入試の調査書(内申書)の偽造問題にまで発展している。(『朝日新聞』2006年10月28日)

 ところで宗教立学校以外の公立学校においては、現在、小学・中学の9年間の義務教育の間に、『心ノート』を補助教材として道徳教育がなされている。
 しかし、その授業実態と実効性はどれほどのものか。ましてや公立学校において、大学受験に関係のない宗教教育は小学・中学・高校の12年間に全く無いに等しい。
 たとえば仮に高等学校で「倫理」を選択した場合、キリスト教や仏教の授業時間は、50分授業で2回分しか取れないという報告がある。

 川又俊則浦和学院高等学校教諭によると、平成14年度3月検定済みの「倫理」の教科書は20冊ぐらいある。
 その検定済みの教科書のなかで、ある教科書は、「キリスト教の思想」「イスラム教の思想」「仏教の思想」「中国の思想」という形で取り上げられている箇所を世界の宗教と見なすと、教科書の14%から20%ぐらい。
 キリスト教、イスラム教、仏教の比率を見ると、多くの教科書で3対1対3になる。
 また、日本の宗教に関して、ある教科書では、「日本の風土と伝統」「仏教の受容と展開」「儒教の受容と展開」「国学と民衆の思想」「西洋思想の受容」「近代的自我と伝統」という項目があり、宗教という分類に入れにくいものはあるが、おおむね日本の宗教とすると20%程度になる。合算すると、教科書の中のおおむね40%程度は宗教にかかわっている。

 そして現在の学習指導要領では「現代社会」4単位、もしくは「倫理」2単位、「政治経済」2単位ということになっており、多くの高校では「倫理」は2単位になっている。
 この2単位とは授業時間でいうと、学習指導要領にもとづいて1年間の授業時間が70時間であっても、しかし現実的にはいろいろな学校行事があり、授業としては45時間から55時間ぐらいしか授業ができない。
 仮に、平均50時間として考えてみた場合、その枠内で「倫理」の教科書の範囲を全て扱うとしたならば、宗教関連の授業時数は20時間、キリスト教や仏教は2時間分しか確保できない。
 高校の授業時間の1時間は大体50分と考えると、50分授業2回分でキリスト教や仏教の話をしなければならないのが現状である。(『いま、宗教教育≠考える−教育基本法第九条の理念と現状−』財団法人日本宗教連盟、2003年12月)
 川又教諭の報告は公立学校において「倫理」を選択した場合の話である。公立学校において「倫理」を選択しない学生の場合、9年間の義務教育、高校も含めて12年間に「宗教教育」の授業は無いに等しい。


2、「宗教教育」の実践を、今一度冷静に考えるべき

 『教育基本法』第9条(宗教教育)1項には「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」と明定されている。
 しかし、公教育において、この『教育基本法』第9条1項が、積極的な「宗教教育」の奨励として解釈され、実践されてきた形跡はない。

 また、『日本国憲法』第20条1項に「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と明定されている。
 しかし『日本国憲法』第20条1項も、実際は同条3項「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」および『教育基本法』第9条2項「国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない」を根拠に、「宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない」が全く無視され、事実上、「無信仰の自由」としてしか解釈されていない。

 私は「戦後教育のせいで少年犯罪が増えた。だから教育基本法を改定しなければならない」と戦後教育悪玉論を主張するつもりはない。
 また、「日の丸・君が代」を強制してまで「愛国心」教育をするやり方には反対である。

 しかし、『教育基本法』に「宗教教育」が明定されているにもかかわらず、公立学校において「宗教教育」が全くなされていない現状を改めるためには、『教育基本法』における「宗教教育」のあり方をポジティブに提案することも必要である。したがって、仏教者として、『教育基本法』における「宗教教育」はどう実践されるべきか、今一度冷静に考えてみる必要がある。


3、「西本願寺は宗教じゃない?!」

 『中外日報』(2002年6月1日)の「記者の目」に、興味深い署名記事が掲載されている。
 大谷光淳新門が東京の大学に進学した時に大谷光真門主も上京し下宿先を探した。
 「宗教関係お断り」の張り紙が出ていたアパートで、光真門主が「うちは西本願寺ですが」と申し出ると、大家は「結構です。西本願寺は宗教じゃないですから」と答えたという。

 大峯顕氏(『宗教の授業』法蔵館、2005年)も指摘しているように、今日の多くの日本人には「宗教」は、ほどんど「迷信」か「邪教」の別名になっている。
 こうした「宗教」に対する誤解や偏見、さらに「宗教」に対する無関心や嫌悪感を解くためには何が必要だろうか。

 大谷光真門主はその著『現代社会と宗教−立命館大学文学部特別講座「現代社会と宗教」 受講生からの質問に応える』(浄土真宗本願寺派内事部、2006年)にて、受講者の質問に対して、次のように述べている。

 質問 No.23
  これから社会へ飛び出す大学生が今日のような講義を受けることはとても意義がある と思いますが、青少年犯罪の多様化を見ると学校教育の中で幼児や小学生に宗教を通し た道徳に力を入れることは無理なのでしょうか。

  私立の幼稚園や学校では、宗教を通した道徳を教えることはできますが、公立学校で は信教の自由という原則から、特定の宗派教育はむずかしいでしょう。特定の宗派教育 はされて困ることもあります。
 しかし、昨今のカルト教団の犯罪や霊感商法などの反社 会的行為、また青少年のオカルトや超常現象、占いといったものへの関心等を見れば、 世界の主な宗教の歴史や教義、また宗教が絡んだ戦争などをあくまでも知識として教え ることは、公立学校でも必要なことではないでしょうか。
 特にグローバル化が進み、さ まざまな異文化の人たちとの交流が盛んとなった今日、その人たちが信仰する宗教を理 解することは非常に重要なことです。(以下略)


 築地本願寺境内でのこと。正門の「花まつり」の掲示板を見た通りがかりの50代の女性が、その夫に、「お父さん、花まつりって何でしたっけ」とたずねていた。
 また、浄土真宗のお寺に参拝し、阿弥陀如来の尊前で、柏手を打った30代の息子に、その父親が「お寺では両手をあわせて拝むんだ」と教えていた。
 二つとも私が実際に目にした光景である。

 「花まつり」を知ろうと知るまいと、仏前で合掌しようが、柏手を打とうが、好きなようにし、強制させるものではないという人もあるかもしれない。
 しかし、国際化がすすみキリスト教徒のみでなくイスラム教徒やユダヤ教徒とも一緒に生活する機会が増えてきた今日、それぞれの宗教についての常識的な知識は必要である。
 同じく、日本国内の仏や神についての常識を欠くことは、仏や神に対する失礼にあたる。

 京都新聞文化報道部記者三田真史氏は「第8回世界宗教者平和会議(WCRP)世界大会」を取材して「世界がボーダレスになり、今後ますます教義や教学を超えた宗教間の対話は重視される。
 そうなれば、私たちも(宗教間の対話に−引用者注)無関心でいられない」(『宗報』2006年10月号)と述べている。

 2008年11月には、「第24回WFB(世界仏教徒連盟、本部タイ・バンコク)世界仏教徒会議・日本大会」、「第14回WFBY(世界仏教徒青年連盟)大会」がそれぞれ日本で開催される。
 今後の「宗教教育」を考えるとき、いつまでも「日本」の、しかも「宗派」というミニ国家に安住した「日本仏教」の思考・発想に止まっていてはいけない。

 日本経済においてさえ、「ボーダレス」にして「グローバル化」時代への対応は難しい。ましてや宗教において、異質な他者同士が互いに理解しあう、「異文化の人たちとの交流」「宗教間の対話」は、さらに難しい。
 その意味においても、公立学校における「宗教知識教育」は必要不可欠である。

 仲野 光圓