11月6日、「いじめ」を苦にする学生の自殺予告があった。
私は、かつて80年に金属バット殺人事件で浪人生の息子が両親を殺した直後、教育者であり念仏者だった故・西元宗助氏が、NHK教育テレビ「こころの時代」で語っていたことを思い出す。 氏は、教育者として責任を感じると発言していた。インタビュアーは、直接面識もないのにですかと驚いたように問うと、教育者として挫折感を感じると再度、語っていた姿を鮮烈に思い出す。その時、理解できなかったが心のどこかに染みついた言葉だった。
今回、「履修単位不足」事件の後、元・私立高校の教員と話をした。すると学年末、異なる科目の教員同士で、単位の取り引きをするのは例年のこと。 それは受験を目的としている現在の高校では常識であり、一部の学校の特例ではなく、ごくごく当たり前の出来事であるという。
誰もが分かるようにこれは文科省がいうような単位不足そののみを問題とするのは、余りにも表層的な受け止め。 では今まで当たり前として行われたことが何故漏洩したかといえば、困る人がいるからだ。 それは学校の責任者、校長・教頭であろう。だれが漏洩したか。先の教員と話をして教育現場の雰囲気が伝わってきた上で断言するならば、それはその場にいる教員である。
教育に希望を持ち、熱意を持ってその職域に身を投じながら、現実はその願いとはまったく異なることを強制させられる現場に辟易したのか。 今までならば、それでも漏洩などしないでも教員が人間らしさを保てた。そして自己保身のみで教員に恩恵も感じず、ただ吊し上げるだけの(一部の)保護者という名の一部の文化破壊者。
つまり、それ程、今の教育者の状況は悲惨な場なのであろう。教員自身が、非道な方法で問題解決しようという状況の中にいる。
それによる一番の被害者は、社会的弱者であり感受性の強い子どもだということは想像できる。(今日、九州で校長が又自殺している。無論、子どもだけが追い込まれているのではない)
そして、そのような受験のみを目的としてきた歪んだ社会と呼応するような「いじめ」。今まで公表されなかった理由に、今度は教育現場の責任者の自己保身によるものが推測される。
こうした問題をまったく問いにせず、今教育には問題があるから短絡的に「教育基本法」に問題の矛先を向ける現政権の稚拙さと、拙速さ。無論、その先にあるのは、愛国教育という名の全体主義の強制と憲法改悪による交戦権の行使(つまり、戦争による人殺しの認可)。
「いじめ」と並ぶ、年間三万人を超える自殺者という社会的弱者を作り上げるという異常な社会問題。 その内、サラ金の高金利の取り立てによる多重債務者の年間自殺者は三千人以上(この数を引くと世界の自殺者統計における日本の順位は大きく変わる)。法定外金利の歯止めをする法案に反対する自民党議員。高金利の金融業者の背後につく外資系企業。
しかし、現メディアはサラ金に関わる議員の名を追求しようともしない弱腰。後手に回れば、それはやがて言論の自由の放棄となる(言論の自由とは、権力者を縛るために憲法が国民に与えた権利であるが、それをはき違えて「核武装論議」をする与党議員の浅薄さ)。そして、こういう問題を論議せぬ野党。
ついに、一回一千万円を超える金がかけられて開催されているタウンミーティングという公共の場での虚偽の発言。その内容は責任政党と名のる自民党による「やらせ」の質問で「教育基本法」を改悪しようという事実。
しかし、それを許してきたのは国民の義務である選挙の責任者である私たち一人ひとり。
私は思う。宗教とは、具体的にその生き方をすることである。例えば、ある宗教に共感して生きるということは、具体的にその教えをもととして、手を合わせ、モノを語り、思いをはせること、つまり身口意の行動を伴う。
私が浄土真宗という生き方をすることは、私の具体的な生き方が今まで拠り所としていた世間の常識的な生き方とは変わるということ。 それは、今まで、無関係だと思っていた一度も会ったこともない数多くのいのちのお陰で生かされ、支えられていることに恩恵をいただく。それはまた、その責任を私が生きるということ。
無論、責任政党などという思い上がった意識とはまったく異なる。その責任は、世の出来事を私の生き方の上に引き寄せて受けとめ、問いにし、語りかけ、行動すること。
改めて、西元宗助氏の言葉が今の私に響く。念仏を称え生活するようになった私に響く。
80年の金属バット事件は、11月29日未明であった。今年、27回忌を迎えようとしている。
06.11.12記す
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万木 養二 |
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