2006年12月15日、安倍首相が国会の最優先課題にしていた「改正教育基本法」が、国民や野党から見直しや反対をされていたにも関わらず、参議院本会議で与党の賛成多数で可決成立しました。
戦前の全体主義教育の過ちの反省から、民主的な「個の尊重」をうたう教育基本法は、1947年制定から59年を経て、国や社会など「公の精神」重視に転じたことになります。国会での論戦では、教育への国家介入強化の懸念も指摘されました。特に、安倍首相が「日本の伝統と文化を学ぶ姿勢や態度は評価対象にする」と主張した評価が通信簿などに反映されることになります。すると、生徒の自由な思想や信条の育成、さらに教育現場での教員の教育方法への国の介入など、大きな影響を与えます。
「教育の憲法」とも呼ばれる教育基本法が改正されたことで、憲法改正法案が来年の通常国会以降見直しが本格化していきます。
私たち、仏教に生きるものにとって、この法案成立はどのような意味や影響があるのでしょうか?
例えば、浄土真宗ではこの世を生きる原理として仏法の掲げる阿弥陀如来の本願を真実として拠り所とします。そして、その本願の念仏を称える生き方を通して、私や私たちの社会の抱える迷いを見届ける信心を恵まれます。
こうした仏教の真実を拠り所にして、世間の不真実・虚仮なる姿を見届けた言葉として、聖徳太子(五七四〜六二二)の『天寿国繍帳』に、
「世間虚仮 唯仏是真」
という句があります。また、これを親鸞聖人は、『歎異抄』に、
「 煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」
と言われています。
世間の原理は、末通らないもの、あるいは迷いの上に成り立つものという視点が生まれます。そこから浄土真宗らしい独特の生き方が生まれました。
例えば、習俗や慣習という形で日常生活に定着した宗教が私たちの周りには沢山あります。初詣から始まり、初午(はつうま)、ひな祭り、合格祈願、たなばた、七五三、宮参り、お札、お守りなどなどです。そして、それらの行事には、拝んだり、祈ったりすることで、自分や自分の仲間の御利益を期待する宗教性があります。
ところが、浄土真宗の門徒は、日を選んだり、お守りをもったりしない、あるいは神棚を祀らない、呪術・まじないなどをしないなど、阿弥陀如来の本願の念仏のみを拠り所にするという独特の生活習慣が生まれてきました。そのため、門徒物忌み知らず、とか、門徒もの知らずと言われてきたのです。
無論、門徒は別の信仰に生きる人に自分の信心を押しつけようとはしませんでした。ただ、自分の生き方が自ずと外に発露した結果、このような文化や生き方を生んだのです。
しかし、もし、先に挙げたものが「日本の伝統と文化を学ぶ姿勢や態度は評価対象にする」ということになると、そうしたものとは異なる伝統や文化、さらにいえば、異なる宗教原理を生きる人びとにとって暮らしにくい社会を生み出すのではないでしょうか。
そうであるからこそ、キリスト教という日本の伝統や文化とは異なる原理を持つ恵泉女学園(東京都世田谷区)は、大口邦雄学園長の名で、基本法改正に反対する声明を出しています。これは真宗の教えに生きるものにとっても同じような問題を突きつけられる可能性が非常に高いといえます。
戦前、私たちの教団は、宗祖親鸞聖人の教えにないことを教えだと称して、全体主義的な社会の動向に近づき、アジアを巻き込む侵略戦争に加担したという悲しい事実を抱えています。
自由にものがいえないという状況は、すでに全体主義的な道へ歩み始めているといえます。「世の中、安穏なれ。仏法ひろまれ」というスローガンは、自分の心の中にとどまる生き方とは違います。お念仏を生きるとは、お互いが違いを認め合い、なお、お念仏の尊さを伝えていこうとする自由で平等な世界を開いていこうとすることでしょう。
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万木 養二 |
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