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 07.02.01 


お寺は、昔から「参加型イベント」?

  毎日、私たちは新聞、ラジオ、テレビ、ネットなどを通して情報にめぐまれます。
 文章にしろ、言葉にしろ、それを私たちは何気なく受けとめていますが、ちょっと気にしてみると意外なかたよりがあります。

 かつて研修会の時、こんな例題に出会いました。

「ある青年が、実の父親と二人でドライブに出かけた。しかし交通事故を起こし、父親は即死、青年は重傷を負った。この青年が救急車で運ばれた病院には、凄腕で知られるブラックジャック(手塚治虫『ブラックジャック』に登場する男性外科医の名前)のような外科医が手術室で待っていた。ところが青年の顔を見るや驚いて叫んだ、『私の息子ではないか!』」
 さて、この青年と外科医の関係を一言で説明せよ。

 すぐ答が分かった方もいたと思いますが、多くの方が不可解に感じたり、或は全く分からないと思ったことでしょう。
 私たちが世間の常識というレールの上に乗っているために見過ごしたり、或は思いこみをしてしていることに気づくための例題だと思ってください。答は、非常にシンプルです。

「外科医は青年の母親である」

 如何でしたか?ものごとをあるがままに見つめ、捉えている積もりなのに、私たちの日常のものの見方には、文化的にも・個人的にも、様々なかたよりがあることを知っていただきたかったのです。医者は男性という思いこみが、わざわざ女医という言葉を生み出す背景ともなっています。
 よく「全員参加の開かれた」地域・社会・情報・関係などと言いますが、様々な姿でつながりあったり、それが時として、とぎれたりして成り立っているのが地域・社会・情報・関係ではないでしょうか。つまり現実は、流動的であって、こうでなければならないとはいえないものです。ですから、一面的に「全員参加の開かれた」あり方を良しと決めつける発想が既に「閉ざされた」ものの見方になっているのではないでしょうか。つまり、ここでもかたよりがあるようです。

 さて、軽い違和感を持った記事です。
 http://www.asahi.com/life/update/0128/003.htmlによると、

 【お寺でダンス 東京・築地本願寺で初の参加型行事 2007年01月28日03時01分築地本願寺(東京都中央区)の本堂で27日、障害のある人や子どもたち、プロのダンサーらが約50人集まり、ダンスを楽しんだ。同寺宗務首都圏センターが「開かれたお寺にしたい」と計画したもので、初の参加型イベントという。】一部転載

 「初の参加型イベントという」ということですが、毎年夏になると境内で開催されている盆踊りは参加型イベントではないのでしょうか?(言い出したらきりがありません)
 子どもの頃から築地の盆踊りに親しんでいたものですから、この記事に関心を持ちながら、安易な言葉に流される日常にフト立ち止まりました。
 新聞などの報道の現場では、お寺の法事も、「初の参加型イベント」という言葉を使いさえすれば、目新しく感じられるのかもしれません。

 しかし、ちょっと考えるとすると、私たちがお勤めしている諸行事自身は、元々、この「参加型イベント」ではないでしょうか?
 集まられた方々と一緒に、「合掌いたしましょう」と手を合わせ、経本を手にして「いただいて」、お経をみんなと共に声を揃えて出して読んでいただき、まさに身をもって「参加」して貰っていませんか?それこそ、いちいち、障害のある人も、ない人も、とわざわざ掲げることもなく、それぞれの仕方で「全員参加」して貰っているのではないでしょうか。
 もともと、お寺の行事は頭の中だけで知識を増やすということでなく、行という言葉がつかわれているように、身をもって参画していただくものでしょう。

 「開かれたお寺」とか、「初の参加型イベント」というような表現を使ったり、また、何となく最近、耳慣れているからといって見過ごしているのが私たちのメディアを巡る意識です。しかし、そのようなことを見過ごすということは、「あるある」や「タウンミーティング」を作らせてしまいます。さらにいえば、その底流にある「捏造」や「やらせ」を安易に受け入れているメンタリティが私たちの中に根深くあるように感じました。そして、一方では、有名(最近、有名とは売名の類語のようですが)占い師の言うことを鵜呑みにする私たちの宗教的メンタリティともつながっているようです。

 私も理屈だけでなく、「世の中安穏なれ」ということを身をもって行動していきたいと思います。



 万木 養二