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 07.04.01 


花 ま つ り



■誕生

むかしもむかし三千年
花咲きにおう
春八日
ひびきわたったひと声は
天にも地にも
われひとり


 これは、花まつりの歌の一節です。およそ2500年以前に悟りを開いて人々を救う道を見つけた仏教の開祖・釈尊の生誕が、今でも世界各地で祝われています。

 釈尊は、ヒマラヤ山麓の小国の王子として生まれ、「シッダッタ」(目的を達成した者)と名づけられました。姓はゴータマといいます。
 父はスッドーダナ王、母は隣国のコーリヤ族出身のマーヤー夫人です。マーヤー夫人は王子を出産して7日目に世を去られたので、夫人の妹マハーパジャーパティーが第二の母となって、王子を育てられました。

 釈尊の生まれた釈迦族は、カピラヴァストゥを首都とする小さな国を作っていました。現在のネパール中央南部から、それに接するインド国境地方にまたがる山間平野の一帯と考えられています。


■生誕の地ルンビニー

 イギリス統治下の1896年、イギリス人考古学者A・フューラーが、ルンビニーの遺跡を発掘し、アショーカ王の建立した一本の石柱を発見しました。

 石柱には「ここで仏陀・釈迦牟尼が誕生された」という旨の刻文がありました。これによりこの地が釈尊生誕の場所であることが判明したのです。

 誕生の年代については種々の説があって、おおよそ紀元前560年頃、あるいは同じく460年頃と推定されています。なお、生誕日に関しては、2月8日だという説も漢訳経典の中に出ています。


■さまざまな伝承

□白象の夢

 マーヤー夫人はある夜更け、白い象となった釈尊が天から降りてきて自分のお腹に入る夢を見ました。そしてその直後、マーヤー夫人は懐妊しました。
 白象は、古代インドの人々の間では気高いものの象徴となっていたので、尊くしかも清浄な心の人がこれから世に出ることを暗示しています。

□四方七歩の宣言

 釈尊は、生誕されると同時に七歩あゆまれ、四方に向かって
天上天下唯我独(為)尊
三界皆苦我当安之

と宣言されたと伝わります。

 生死を輪廻する迷妄の境界のものは苦悩に沈んでいる。だからこそ、
 それらすべての人を悟りの境界に安らかに導き度すために、我は生まれたのである、との宣言は、釈尊自身の使命と責任感の披瀝であると同時に、真理体現者としての尊厳性の表れでもあるのです。

 「四方」は、直接的には東西南北の四方を指していますが、その意味は十方ということであり、空間的にあますところがない。「七歩」を歩まれたということは、生まれながらに六道(界)をすでに超えた聖者であることを現しています。

□甘露の雨

 現在のインドを見ると、寺院に参詣する前や、毎朝のつとめとして沐浴するのは極めて一般な習慣であり、宗教的に重要な儀式の一つです。
 釈尊の誕生の時の灌沐について、『普旺経』という釈尊の伝記を述べた経典の一つに、帝釈天が誕生を祝して天から香水を降らして洗俗したとあり、中国・日本では、これが灌仏会の典拠とされます。
 また、初転法輪の地・サルナートから出土した石彫の仏誕図にも、龍王が香水を釈尊の頂に灌ぐさまが画かれているので、古い伝説であることが知られます。

 このように、誕生仏に香水を灌ぐのが、インド・中国を通じ、日本でも古くからの慣わしでありましたが、江戸時代中期以降から甘茶を以て香水に代えるようになったようです。甘茶には、インドで古来いう不死の薬「甘露」を象徴する意義があります。


□アシタ仙人の予言

 釈尊誕生の際にアシタという仙人が将来について予言をしました。
 仙人は生まれたばかりの光り輝く王子の顔を見て、涙を流しました。自分の行く末を憶うて、生まれたばかりの釈尊が立派な宗教家となって教えを説くのを見ないで死ぬのが残念で嘆いたと伝えられます。

 この伝承は次の段階になると、王子は長じては出家して大宗教家となるか、あるいは世俗のうちにとどまるならば、普遍的な大帝王(転輪聖王)になるか、どちらかである、と人相師が予言するような伝説が現れます。
 これはインドが統一されていく過程に普遍的国家の帝王(転輪聖王)の理想が成立し、それが釈尊の伝記にも影響を及ぼしたのではないかと考えられています。


■花まつりの始まり

 『日本書紀』の推古天皇14年(606)の条に、「この年より初めて寺毎に、四月八日、七月十五日設斎す」と記されています。
日本の花まつりの歴史は、聖徳太子の時代にまでさかのぼると考えられます。


■花まつりの名称

 花まつりは、「灌仏会(かんぶつえ)」「降誕会(ごうたんえ)」や「仏生会(ぶっしょうえ)」、「浴仏会(よくぶつえ)」、「龍華会(りゅうげえ)」、「花会式(はなえしき)」等の別名もあります。

 花まつりの名称発祥の地はドイツ?という面白い説があります。明治時代、ドイツに留学中の僧侶と学生たちが、ベルリンのホテルで、金屏風の前で誕生仏を花でいっぱいに飾り付けました。
 それを見たドイツの人々が「ブルーメン・フェイスト(花まつり)」と呼び、それが花まつりの呼称の始まりとなったという説。

 実際のところは、大正時代、明治時代に吹き荒れた廃仏毀釈という仏教弾圧の嵐によって、一時期元気をなくしていた仏教を、民衆の心の支えとして復興しようという活動が盛んに行われ、その運動の先頭に立っていた浄土真宗の僧侶・安藤嶺丸が花まつりの呼称を始めたといわれます。

 そのいわれは、日本の説話『花咲爺』にもとづきます。この昔噺は室町末期から江戸初期の成立といいますが、原型は「ジャータカ」(釈尊の前世物語)にあります。

 釈尊の誕生、そしてその教えが、世の中に救いの花を咲かせたとの思いから名づけられたものでした。


■世界の花まつり

 ミャンマーやタイ、スリランカ等の南方仏教諸国では「ウェーサク祭」として、インドでは「ブッダ・プーニマ」として、ヴァイシャーカ月(インド歴の第2の月で、太陽暦4〜5月に相当)の満月の日にお祝いをしています。

 南方の伝によれば、誕生も成道も入滅も、すべてこのヴァイシャーカ月においてであったとされています。


■現代の花まつり

 日本各地寺院では、4月8日に花御堂を設け、その中に誕生仏の像を安置し、その頭上から甘茶を灌ぎ、釈尊誕生を記念し盛大にお祝いされています。

 最近では、全国の若手僧侶が中心となり、釈尊の誕生を祝うパソコンサイト『メリシャカ!』が立ち上がりました。どうぞ一度のぞいてみて下さい。


    【参考資料】

       『ゴータマ・ブッダ』
        中村元選集(春秋社)

       『釈尊の生涯』
        水野弘元著(春秋社)

       『アジア仏教史 インド編』
        藤田宏達著(佼成出版)

       『ブッダ ―大いなる旅路―』
        高崎直道監修(NHK出版)

       『仏教はじめて物語』
        (大法輪閣)

       『仏教入門』
        松原泰道著(小学館)



 西原 龍哉