報道によると首相安倍晋三が靖国神社の春季例大祭で、内閣総理大臣の名を掲げて、私費から五万円を出して神前に供える真榊(まさかき)を奉納するという宗教行為をしていた。これは五月八日に靖国神社と複数の政府関係者が真相を明らかにしたことだ。
首相は就任以来、靖国神社参拝の有無について明言しない方針を示しているらしい。名言しないのに、何故みんなに見えるところに供え物をするのか、その思考形式は日本人だけでなく、海外の人びとにも分からない問題だ。しかし、首相が供え物をしたことは事実だが、その背景には首相の参拝を求める同神社側や自民党内の参拝支持勢力に対し、一定の配慮を示す政治的な狙いがあったとみられる。
つまり、首相の場合、一宗教法人である靖国神社に参拝するということは、個人の宗教行為であると同時に自身が日本遺族会やその周辺諸団体から集票するために駆け引きをする政治的行為という二つの問題が重なるのだ。
「国のために戦った方々のご冥福をお祈りし、尊崇の念を表する思いは持ち続けていたい」と首相は言っているが、宗教的信条を示すのに家の神棚の前で勤めることができることを何故、侵略戦争史観を堅持する靖国神社に出かけるのか。勿論、先に示したようにそれは政治的なものだからだ。
もし、靖国神社でなければならないのならば首相になる前も毎年、靖国に参拝していたのか、いや国会議員になる前も、あるいは勤め人だった頃も、あるいは東京に生まれ育った学生時代はどうだったのか、それが宗教的信条だと思うがお聞きしたいと思う。
政府関係者によると、供え物はサカキの鉢植え一つで、首相は「私人たる内閣総理大臣、安倍晋三として奉納した」としているという。ただ、首相自身は同日午前、首相公邸を出る際、真榊奉納の事実関係をただした記者団の質問に無言で無視を通したという。そういう人物を国家代表として私たちは選んでいる不思議さ。
説明責任がある立場にいる人物が記者団の問いに答えられないのは、私たちから見れば、質問の答えが分からないか、あるいは都合の悪い質問であるかと想像される。もっとも、昨年から問題になってきた政府主催のタウンミーティングで「やらせ」をさせた省庁の責任者を選んだ人は誰だったのか。そして、国民投票法案が既に国民に周知しているという答弁も、この同じタウンミーティングを各都道府県で行ってきたという事実が思い起こされる。
官房長官塩崎恭久は会見で「首相の私人としての思想信条にかかわる問題、事柄なので政府としてコメントは差し控えたい。肩書を付けたから公人ということではない」と述べ、奉納という宗教行為は私人の立場で行われたことを強調している。わざわざこうして宗教的信条という一方の視点のみで語り、もう一つの政治的な損得という立場が語られないということから私たちは何を読み取るのか?私は宗教を隠れ蓑にした政治的不遜さと思う。
首相周辺は奉納が「(参拝中止を求める)中韓両国に配慮したもの」であるとした上で、首相が年内参拝を見送るかどうかに関しては「春の例大祭はこういう対応をしたということだ」と言及を避けているが、靖国参拝をしていながら、そうではないと言っているようなもので、これでは外国の人びとにも分からないだけでなく、国内の人間にとっても訳の分からない発言でしかない。
実際、首相の肩書を使った奉納には中韓の反発も予想され、日中間で調整されている安倍首相の年内訪中や、来年の胡錦濤国家主席の訪日に影響を及ぼす可能性もあるという。
また、私たち念仏者にとって信教の自由こそ問題だが、当然のことながら、憲法の政教分離原則に抵触する問題であり、各方面からの批判や訴訟も出そうだ。
安倍事務所は朝日新聞の取材に対し、「思想信条に関するご質問には回答しておりません」として、供え物の費用が私費か公費かも回答はなかったが、思想や信条が不明瞭な人物を一国の命運を決定する首相に選んでいるという悲劇がある。しかし悲劇を通して私たちの愚かさを学び、気づき、そして新たな生き方が生まれていく可能性がある。
仏教の学びは、どこまでも批判ではなく私自身を知らされることにある。こんな身勝手で無責任な首相というその指摘は、私の気づかない私自身の姿を教えてくれているものでもある。私自身の中にある問題点は私にはなかなか見えないのである。
たとえそれが国家首相であろうと人間である以上、人間の営みの中にある間違いは間違いと相対化していく仏の智慧を頂くのが念仏の信心の姿であるが、同時にそれは私自身が深められ糾されていく行道である。
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2007-5-15(火)
万木 養二 |
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