最近のニュース − コラム
 07.06.01 


生老病死の分断化を防ぐお寺の活動
〜赤ちゃんポストに思う〜



  ・「赤ちゃんポスト」から問われる、お寺の存在。

 2006年に熊本県熊本市の慈恵病院が赤ちゃんポスト(同病院では「こうのとりのゆりかご」の呼称を用いている)の設置を計画、2007年5月10日から運用を開始しました。
 この原稿は、問題の論評が目的ではなく、この問題から問われるお寺のあり方を考えてみたいと思います。


  ○生老病死の近代的孤立化の問題

 生老病死は人間の基本的なあり方として、仏教では「四苦」と示されます。
 誰もが聞いたことがある教えですが、私たちは、生老病死のあり方を受け止めるときに、自分の感覚で受け止めていないでしょうか。
 自分の感覚といいながら、様々な制約や影響を受けていることを謙虚に振り返ってみたいと思います。

 近代的な人間観は、「個人」を強調するあまり「孤立した個人」に分断する人間観をつくりあげたのだと思います。
 政治・教育・経済など社会的な現象は、個人のあり方に多大な影響を与えています。
 その中で、生老病死という人間のあり方を仏教的な視野ではなく、孤立化した個人主義において受け止めるとき、生・老・病・死を分断して専門家にまかせる社会的なあり方が生まれてくるのです。
 まずここに問題の所在があることを述べたいと思います。


  ○縁起における専門性のあり方
    〜指導性を強調した専門家の問題性〜

 生老病死は、仏教の教えから受け止めるとき、決してバラバラではありません。関わりの中に生じ、関わりにの中で移りゆくのです(縁起)。
 したがって、専門性のあり方が問われていきます。関わりの中で受け止める生老病死とは「生活」です。

 専門家は、生活を支えるためにあるのであって、生活を分断する為にあるのではありません。
 それは、指導性が強調されるのが専門家ではなく、責任性の強調こそが、専門家の意義なのだと思います。

 指導性の強調は、権威を生みます。権威にまかせることで、一方的な関係性が成立し、分断が生じます。「まかせてほしい」という責任性の強調には、「まかせること」への本質的な信頼がなければ成立しません。
 資格を持っているから、まかせるのではなく、「この人だからまかせることができる」そこには、「生活」を支える「顔の見える関係性」が成立しています。
 「生活」こそ、人間の尊厳を守る大切な場なのです。「赤ちゃんポスト」から問われる視点は、この「生活の分断化」にあると思います。


  ○顔の見える関係としての「生老病死の町内化」
    〜「介護の町内化」からの学び〜

 生老病死を分断せずに、生活の場として、顔の見える関係の中で支えていく方向性が必要だと思います。それを、三好春樹氏の所論である「介護の町内化」に学びながら、「生老病死の町内化」と表現させて頂きます。

 三好春樹氏は、介護の現場から、抽象的な「介護の社会化」ではなく、本質的に人がひとを求め支えあうエロス的関係を基盤としながら顔の見える具体的な関係で支えあう「介護の町内化」というイメージを提言してくださいます。(『ケアの社会倫理学 医療・看護・介護・教育をつなぐ』川本隆史編 23頁〜24頁・203頁〜第7章 介護の町内化とエロス化 を参照)

 その本質的な提言は、「介護」という一分野の問題ではなく、「生老病死」を顔の見える関係においてトータルに支えていく「生老病死の町内化」という展開を内包しています。そこに、地域における、お寺の存在価値があると思います。

 「死」のみを対象とするのがお寺の活動ではないはずです。むしろ、「生死(しょうじ)」とあらわされる人間の存在そのものを迷いと捉え、苦悩を超えていく道を示してくだるさるのが仏教の教えです。
 それは、生活の分断化を防ぎ、人間関係を結びつけ促進させながら、「生老病死」を顔の見える関係で支えあう、街づくりに貢献できる具体的な活動に展開すると思います。


 ○「生老病死の町内化」におけるお寺の可能性

 「生老病死の町内化」という方向性を持って、具体的にお寺が活動していく時、顔の見える関係を紡いでいく具体的な活動が展開できると思います。
 ご門徒は、その地域活動を支えてくださる大切な担い手になっていると思います。
 むしろ、不特定多数の方々とどのように「顔の見える関係」を紡いでいくのか、そこに「生老病死の町内化」のポイントがあると思います。

 それはお寺が公民館化することではありません。むしろ、今の公民館が本当に公民館として機能しているのかを問う大切な活動だと思います。
 「生活」を支えあう街づくりの中心にお寺が果たす役割はあくまでも「生死出離の道(人間存在の苦悩を超える道)」を具体的な活動の中で伝えていくことです。
 そこには、具体的に、生老病死の分断化を防ぐ「開かれたお寺」のあり方が見えてくるのではないでしょうか。

 例えば、誰もが参加しやすい「開かれた法話会」のあり方を模索することであったり、分断化された生老病死をつなぐテーマ性をもった連続公開講座であったり、人を紡いでいく町内開放型のコンサートであったり、様々な活動が考えられます。 

 「赤ちゃんポスト」が問いかけているのは、生老病死を分断化し、専門家に依存してしまう「孤立化した個人主義」の社会的な構造であり、それに対してお寺がなすことは、単純な論評ではなく、町内において支えあう、生老病死を分断化させない具体的な活動ではないでしょうか。

 成田 智信