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 07.07.01 


「世論」の動きと私たち念仏者
〜参議院選挙を考える




  今回、参院選の選挙日が一週間延ばされたことにそれほど、大きな批判の声がうごくこともなく、「粛々」とことが進められてしまうのは、すでに保守党の方向性に向けて人びとが否応なくまとめられてしまっているのだろうかと、少々、思考を停滞させていました。

 月刊『現代』というオピニオン雑誌の巻頭言を読んで考えさせられました。『潜思録』と題され、辺見庸氏によって毎月連載されているものです。今回のタイトルは、「沈黙の螺旋」。
 氏は、「世論」ほど怪しい存在はないといいます。その理由は、右にいったり、左に旋回したり、そして、今のようにかつての侵略戦争の反省を忘れてまた右に方向転回するというのです。メディアや情報が多様化し、情報量が増えているのに、人びとが政治的に成熟していると思えないのは何故かということを論じています。
 社会心理学者らによると、これだけ情報が増えているために、かえって人びとは社会がどのような方向に傾いているか敏感になっているというのです。情報化、ということは、相互監視する社会になったからこそ、自分が多数派でなくなり孤立することを怖れているというわけです。
 (そういわれれば、六月渋谷のガス爆発で驚いたのは、その時のメディアが用いた爆発の映像は、まったく「監視カメラ」そのものによるものだったというのが私の感想です。)
 辺見氏はいいます。ドイツのE・ノエル=ノイマンの「沈黙の螺旋」理論によると、人は自分が多数派か少数派かをつねに探り、多数派だったと安心したならば声高になり、少数派だと気づいたならば沈黙するというのです。その結果、声高な政治家や評論家はより声高になり、そうでない立場の人はさらに沈黙するといいます。そして勢力ある側の発言者は多くの同調者、付和雷同者を生みつつ、同時に沈黙する人びとの層をつくり、「螺旋構造状の増殖」を続けるというのです。
 その結果、多数意見と「みなされる」ものに与し、偏っていく多くの「世論の大勢」をつくるといいます。つまり、世論というのはこのような背景があるというわけです。この螺旋構造(スパイラル)から脱出するには、いわゆる「世論調査」という世間の動向から抜け出て、「沈思、悩み、主張」する「人格的個」になるしかないといいます。さて、「人格的個」とは何でしょうか?

 現首相は「美しい国」を掲げています。そのとたんに見えてきたのは、美しい国を壊し続けている保守党の過去の所業でした。しかし、過去だけではなく、教育基本法改悪、国民投票法改悪、社保庁対応黙認法案、天下り容認法案など、ほとんど、有権者、かつ納税者を視野に入れない対応をしていたことが今、年金記録の消失ということがきっかけで、ほんの少しだけ見えてきました。確かに本当にひどすぎると人びとは思い、その結果、安倍内閣支持率は三割を割り(現在)、不支持はその倍となりました。
 では、その「世論」は、次の参院選挙でどう展開するのでしょうか?例えば、改憲に歯止めがかかるのでしょうか?すでに二年後に実施されようとしている「新たな徴兵制」といわれる裁判員制度に問題点を投げかけられるのでしょうか。さきの辺見氏の問いかけに応えうる「沈思、悩み、主張」する「人格的個」というものは、どのように生まれるのでしょうか?

 真宗教団は、今年、承元の法難から八百年を迎えます。専修念仏に生きることが、それまでの体制的な仏教や権威的社会体制を内側から見透す深いまなざしを生み出しました。そして、改革的なものを展開する可能性を持つと「みなされた」のも、弾圧を受けた大きな理由といわれています。いわば、真宗のエートスは、体制の矛盾や問題点に対して批判的な視点を持つことから誕生したわけでしょう。

 さて、浄土真宗教団は今まで、様々な選挙において議員推薦をしてきましたが、今回、特別推薦ということで民主党議員を推しています。それが如何なる意味を持っているのでしょうか。すでに現実の真宗教団の実質的な大勢は、自民党の側にあるといいます。もっとも、地方社会で自民党の幹部や、それを支持する人びととは地方農村の改革的で自覚的な意識のある人びとにあるといわれています。無論、創価学会を集票構造とする公明党に対する批判は通奏低音のように響いていますが、教団が声をかけたからといって都市型の労働者の流れに乗る野党候補者で結束して動くほど非自民でまとまるほどに、フットワークは軽くはないという現状です。

 念仏では今既に「世論」は動かないのも事実です。しかし、念仏の原理をなくした時、「世論」の動向を見届けることが難しくなっているのではないでしょうか。すると私たちは、念仏によって、世論に流されない「人格的個」、つまり、宗教的原理にもとづきつつ、そこから社会の出来事を見届けるような念仏者が生まれるということが求められているのではないでしょうか。信心の社会性ということで語られてきたことは昔のことではなく、今、まさに問われているということでしょう。


2007-7-1(日)
 万木 養二