・「相手の身になる」ということ
仏教に、「慈悲」という言葉があります。仏(覚者・さとった人)の「智慧」と「慈悲」という二つの徳性の一つです。 智慧はあるがままにものを見届ける透徹した意志であり、慈悲はそこから生まれる相手に対する思いやりの実践です。
慈悲は、インドの言葉でマイトリーとカルナーといい、マイトリーとは友愛の心、カルナーとは呻きという意味です。 つまり慈しみとは相手に友愛の情をもって接することであり、悲しみとは相手の苦しみを我が苦しみとして呻(うめ)き声をだすような思いで接することです。
何があろうと裏切ることのない友情というものはいつの時代、どんな地域でも尊ばれ、また自分もそれを目指したいものです。 あの太宰治の『走れメロス』が時代を超えて人の心を感動させるのも、そういう友情を私たちは求めているからでしょう。 しかし、人の辛さを共に涙を流して悲しむことはできても、人の成功を一緒に笑って喜ぶことは難しいと言います。それほど私たちは人を妬(ねた)む心、羨(うらや)む心があるということですが、純粋な友愛を語ることは出来ても、実践することは難しいようです。
ところで「呻き」という言葉が慈悲の「悲」の原意というのは予想外かもしれません。相手の痛みを我が痛みとすることです。 故・雪山隆弘先生の『続・お茶の間説法』(百華苑)によると、母親は自分の産んだ子どもの痛みを自分のことのように感じるからこそ、子どもがお医者さんに注射をされようとするとき、自分はちっとも痛くないはずなのに、「痛い!」と言ってしまうのだそうです。 子どもを英語でいうとチャイルドですが、何でもこの言葉の原語はラテン語で「子宮」の意味があるそうです。 雪山先生によれば、つまり母親と子どもはかつてつながっていて、それが切れて出てきたわけだけれど、まだまだお腹の中と同じようなものに感じられるということです。 ここまでくると本当に、「相手の身」になっているということになりますね。そこから悲母という言葉や悲母観音も生まれたのでしょう。
・「親の恩」
「父の恩は山よりも高く、母の恩は海よりも深し」といいます。 もっとも、幼稚園や小学生の子どもが真顔になって、「本当にお父さんやお母さんのご恩は山よりも高く、海よりも深いものだなあ」などと言ったら、なんてこまっしゃくれた餓鬼なんだろうと思いませんか? それは、年齢から考えて、そのような幼い子どもには未だこのことわざの本当の意味が分からないはずだという思いがあるからです。
しかし、子は成長し大人になり、やがて子どもに恵まれて言います、「やっぱり、子を持って知る親の恩だなあ」。 ここには、子どもを実際に育てることを通して、嬉しさや喜びもあるけれど、子どもを育てるということはこれほど深く大変な関係の中で成り立っていたことだという実感があるのでしょう。 そこからかつて自分も同じように親から育てられていたのだとわが身に思い当たって、「子を持って知る親の恩」ということばが理屈ではなく、腑に落ちるのです。そして、「親孝行したいときには親はなし」ということわざに、改めて出会っていくのでしょう。
ところで、恩という言葉はもう死語になっているとも言われます。 かつては卒業式といえば、「♪仰げば尊し、我が師の恩♪」と歌いました。最近は、恩という言葉が主従関係の押しつけのように聞こえるというので歌わない人がいると聞いたことがあります。 冗談ですが、最近は洋菓子に人気があるので、「仰げば尊し、和菓子の恩」は流行らないのだそうです。さらにいえば、「親孝行したくないのに親がいる」という言葉も聞いたことがあります。
よくよく考えると、「親孝行したいときには親はなし」と思うのも偽らざる私たちの思いですが、状況の変化により様々なご縁にであうと、「親孝行したくないのに親がいる」という思いが出てきてしまうのも、やはり偽らざる私たちの思いです。 つまり、同じ私という人格の中に、人から尊ばれるような思いが生まれてきたかと思えば、絶対に人に知られたくないような思いを持つのもこの同じ私であるということです。
・「子ども怒るな来た道じゃ 年寄り笑うな行く道じゃ」
この言葉は、立場が変わると同じものが変わって見えているけれど、それはかつての私であり、またこれからの私であるというのです。 知識では分かっているつもりの私が実際には実感として分かっていないのでしょう。私だけの立場で見ている限り、それは相手の身になることはとうていできません。 そんな私の姿を教えてくれる、ちょっと私を超えた所からの視点を頂くと気づかされることがあります。 親鸞さまは、念仏は私の称えるものだけれど、実は真実の世界、浄土から私に向かって、どうか大切なことに気づけよ、目覚めよ、身の程知れよと喚びかけ、広い世界に招いてくれている如来のご催促の言葉だと教えてくれます。
かつての私、これからの私。共に歩もうではありませんか。
(万行寺HP掲載分)
本多 静芳
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