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 07.11.01 


千日回峰行に思う



 10月21日、星野圓道師が千日回峰行の「堂入り」を達成し話題になっている。6年ぶり、戦後12人目である。

 この行にも歴史的変遷があるようだが、現在は、「12年籠山」「回峰一千日」「堂入り」の全てを満行する厳しい行となっているそうだ。1年目から3年目は比叡山中255箇所を巡拝する行程約40キロを休まず各100日間、4年目と5年目はそれぞれ連続200日、計700日の回峰をする。700日終了の後9日間不眠・不臥・断食・断水で不動明王と一体になる「堂入り」の行を満じる。6年目は京都市内赤山禅院往復が加わる一日約60キロの行程を100日、7年目は前半100日を僧坊を出て京都市内寺社を巡拝往復する一日84キロの「京都大廻り」、後半100を山中約30キロを行歩する。「堂入り」の後の8百日以降は“生きた不動明王”として加持を行い、衆生を救済する「利他行」の行としている。(以上酒井雄哉師のホームページより抜粋)

 このように「堂入り」を満行することによって「利他行」が可能になる。千日回峰行のクライマックスである。9日間不眠・不臥・断食・断水で不動明王の真言を唱え続けるこの行は、時には命にも関わる。9日間のうちに雨が降ると多少楽になると聞く。湿度が上がると、体が水分を吸い取るのだそうだ。まさに、限界状況である。

 私たち浄土真宗の僧侶は、こうした厳しい修行とは無縁である。「堂入り」などという命がけの修行を満行したというニュースを聞けば、ただただ尊敬するばかりである。

 ただ、私は自力・他力をあまり門切り型に区別するのもどうかと思っている。大乗の行は、自力の行であっても、やはり空観を修することに繋がるのである以上、自力・他力の分別を超えるところに、本当の行が成り立つ。自分が悟りを開きたいとか、自分が行じている、という意識を持って修行してはいけないのだ。『八千頌般若経』等参照して欲しい。

 これは、他力のお味わいに近いと言えるのではないだろうか?「自然法爾」のお味わいは、私のはからいが無くなり、唯信、唯(ただ)念仏のみである。行も信も「これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。」(浄土真宗聖典 注釈版 p.750 )という親鸞聖人のおことばにも通じる味わいである。他力のお味わいは、我執を超えた空を味わせて戴くことに他ならない。きっと厳しい自力の行を行ずる方々も、他力のお味わいに近いものを味あわれているのではないかと想像する。

 千日回峰行を行ずる僧侶を信じる信者の方々は、「私の替わりに修行して、私を救ってくださる(利他行)清僧」として尊崇しているのだろう。この、清僧に対する尊崇の念には根強いものがある。私たち浄土真宗の僧侶は、いくら修行をされた高僧であっても、人間に帰依するのは危険ではないかと思ってしまう。しかし、この僧侶と信者の関係は、阿弥陀如来が私たちのために修行(願行満足)してくださり、私たちを悟りに導いてくださる原型のような関係と見なす事が出来るだろう。そう考えると、私たちも、こうした信者の気持ちを受け止めることは必要ではないだろうか?

 私たち浄土真宗の僧侶は、阿弥陀如来のご本願をお手次ぎすることしかできないが、御門徒の内には、私たちを(善知識として)頼りにしたいという願望があるだろうことは忘れてはならない。困った事(?)だがこれは事実として受け止める必要があるのではないだろうか。「堂入り」満行のニュースに接して思ったことである。

小野島 康雄