週間ダイヤモンド新春号(2008.1.12)で「寺と墓の秘密−誰も知らない巨大ビジネス−」という見出しで、寺院や葬祭・墓地などがビジネスという視点で捕らえた特集が組まれました。
浄土真宗の寺はもともとお念仏の み教えを聴聞する道場として道場主の自宅が聞法の道場としてもちいられたり、また村の道場として建てられてきました。その道場での聞法は厳しい時代を生き抜く力をそこに集う人々にあたえ、また道場では信仰のみではなく、村の様々な課題を話し合い解決する場として機能してきました。このような背景を持つ寺の活動を単にビジネスと捕らえることに抵抗はありますが、編集者も「不謹慎との批判を浴びるのは承知のうえで」と断った上で「現状の分析や問題の指摘。将来の考察など多角的に展開している」と書いているように、ニ−ズとサ−ビスと対価という経済的視点からの現状の動きを丁寧に取材されています。構成も巧く整理され、私が寺の住職として活動し、また寺仲間から聞く内容をほぼ正確に取材しており、誇張を交え煽る内容ではないことは確かです。
実際に寺を維持し、そこで暮らす住職家族の生活を支えるには、門信徒の方々からの浄財である布施収入や、境内墓地のある寺では墓地の永代使用料などの収入は不可欠です。しかし寺の収入だけで寺を維持できるお寺は恵まれた一部の寺というのが、実態ではないかと思われます。かつては私の父も兼業し教員としての収入によって生活を支えていました。逆に言えば寺の収入だけでは生活がなりたたない実態がありました。そこまでして住職が寺を維持してきたのは、聞法道場としての寺を守っていかなければならないという強い使命感があったからこそです。
「繁栄支えた檀家制度が形骸化」「コア顧客の檀家は高齢化過疎化で縮小過疎」との見出しで書かれる深刻な過疎問題は、過疎地域に多くの寺をもつ本願寺教団の抱える大きな課題であります。
都会の寺では人口の流入とともに信徒数が増え、寺の収入のみで住職家族が生活できるようになりましたが、逆に地方の過疎地域においては、寺を支えて下さっていた信徒が減少しています。そのことは寺に寄せられる浄財の減少に直結します。寺を支えていくために住職が兼業し、その収入を寺の維持管理の経費にまわして、何とか寺の聞法道場としての機能を維持されておられる厳しい現状のあることは、本山などでお会いする過疎地のお寺のご住職方から度々聞くところです。
また「かつての寺の機能が外部に代替される」との小見出しで書かれている寺の担ってきた複合的機能が徐々に他の機関やサ−ビス業に奪われていき、最後に残っていた法要や葬儀に関する事柄も主導権が葬送業者に移行しつつあることなどは課題意識のある僧侶は皆が感じていたことでしょう。またこのような形で改めて文章で読むと忸怩たる思いが深まります。しかし後ろを顧みて昔を懐かしむことでは何の結実も得られません。ここに指摘された課題を踏まえた上で新たに行動を起こしていく必要があります。実際に私の周囲にもそのような僧侶がいることも事実です。私も寺の住職として新たな門信徒の集いや、そこに集うメンバーとともに、新たなアイデアをいただきながら寺を活性化させていこうと試行しているところです。特集の中でも「改革寺の挑戦」が紹介されていますが、新たな取り組みに対する評価は分かれることでしょうが、まずは現状から一歩踏み出す活動が必要であり、それらの活動から現状を変革する動きが必ず出てくると思います。
また世襲制という壁から住職になれない僧侶がマンション坊主として活動し、キツクバックという形で極めて宗教的意味合いの深いお布施の何割かを葬祭業者に支払っているということは聞いております。しかしこの形態はマンション坊主に限られるものではありません。既存の寺院や新たに寺院設立を模索している僧侶もキックバックを行っているという話は度々聞くことです。実際の詳細は解りませんが私も批判的に見ておりましたが、なんとかして食い止めなければならないと強く感じております。これは信用問題であります。
僧侶も確かに生活をしていかねばなりませんが、一線を越え経済活動と割り切ってなんの躊躇もない僧侶を私は認めたくありませんし、またそのようなことを行うことを拒みつづけている方々に対する世間の信用も彼らが奪っていくことなります。
またこの特集で檀家さんがたの悩みを受け止めることもできずに、それを新興の宗教にその役割を明け渡しているとの指摘は、単純には首肯はできませんが、寺の門信徒との距離が離れていく傾向のあることも事実であり、そのことが悩みを受け止める器としての役割を狭めていている現状に繋がっていることも現実です。門信徒の方々が普段から寺に出入りできる雰囲気を作っていくことが大切です。また浄土真宗という立場から現世祈祷をしないと、高踏的に構えるのではなく、伝統をもつ寺が現世利益や厄払を求めることの背後にある深い思いを聞かせていただける場であるとを模索しつづけなければいけないと感じることです。
実際に今までも寺は人々の悩みや苦悩を受け止める場でありましたし、そのような苦悩を抱えながら寺の法座に通ってくださる方々は挙げれば限りがありません。
現代のすぐ結果を求める効率化社会において悩みを抱え続けること自体が難しくなっているのかもしれません。明確な解決策(祟りや霊障)を提示されることによってそちら(新興宗教)に引き入れられてしまうことはある程度理解できますが、決して根本的な解決にはならず、かえって迷いを深めていくことに繋がることは私が永年親鸞聖人の教えから学んできたことであります。
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酒井 淳 |
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