・「春一番」吹き荒れる
2月23日(土)、全国的に強風が吹き荒れ、都心で最大瞬間風速27.9メートルを観測。気象庁は、関東地方で「春一番が吹いた」と発表した。毎年、なれている?はずの「春一番」もこれ程強いとキャンディーズの可愛らしい『春一番』の歌声は聞こえてこない(私1957生まれ)。 私は、午後2時半、西東京周辺で車を南へ向け運転していたが、バックミラーに映る空が、あたかも映画のように暗くなって追いかけてくるようで怖ろしかった。自然が猛威をむき出しにした時、人間は身を守る行動をする。
・自衛艦が日本の漁船を大破
08年2月19日未明、イージス護衛艦あたご(艦長・舩渡健(ふなとけん)一等海佐(52歳)、乗組員296人)と勝浦漁協マグロはえ縄漁船「清徳丸」が衝突。艦首に衝突され漁船は真っ二つに割れ、船主の吉清(きちせい)治夫さん(58歳)と長男の哲大(てつひろ)さん(23歳)が行方不明となった。
国内5隻目のイージス艦として三菱重工業長崎造船所が造船し、05年8月に進水したあたごは、高度な防空戦闘能力を有するらしい。全長165メートル、幅21メートル、排水量は7750トンで護衛艦で国内最大。建造費は約1400億円もかかる。 一方、清徳丸は船長約12メートル、7.3トンと排水量は一千倍以上の違いがあり、ひとたまりもなく大破した。
「衝突現場の野島崎沖は船舶の過密海域。関門海峡や瀬戸内海と並ぶ危険個所として海自内でもよく知られている。「ずっと手前で自動操舵を解除し、艦長は起きて艦橋で指揮していなければならなかった。当直士官に任せきりで眠っていたとすれば言語道断」。少なくとも艦長は事前に、当直士官に手動操船への切り替えを指示しておくべきだったと言う。」(0008.2.25朝日新聞)
関門海峡を見たことがあるが、狭い海峡をひっきりなしに大小の船が上手に行き交う。しかし今回の事故は限られた所に自動操縦で突っ込んだ超大型トラックがオート三輪にぶつかったという印象だ。
・くり返す軍隊の事件と「二度とない」という約束
沖縄では今年、在日アメリカ軍による中学生性暴力事件のあと、隊員のいくつもの暴力的な事件が続いた。戦後、事件の都度、再発をなくす立派な表明が出されるが絵に描いた餅だ。
今回の事故は、71年に自衛隊戦闘機と全日空機が空中衝突した雫石事故、88年の潜水艦なだしおと大型釣り船第1富士丸の衝突事故を思い出させた。人命が奪われ、また情報開示が小出しにされた同じ経緯があり、その都度、「二度とないように」という表明がでた。過去、防衛大臣は引責辞任したが、今回の大臣は約束通り辞任は「二度とないように」なったらしい。
・軍隊は国民をまもるのか?
不思議に思われることがある。清徳丸の被害者家族が後日、海難現場へ自衛隊の用意した船に乗って出かけるのに差し向けたバスは、よく火葬場などの往復で使われる位の大きさのものだった。 勝浦へお詫びに出かけた防衛大臣の車が途中で一般市民の車にぶつかったが、その車は立派な車だ。なぜ、被害者にはもう少し快適な車を用意しようという気持ちが加害者の国の側におきないのか?
地元では大きな祭が控えていたが住民から自粛の声が上がったという。その心情はよく分かる。 しかし、そこから自衛隊のあり方を問い、それを制御し国民を国家の横暴からまもる憲法を見つめるような動きが生まれない。そのように慣らされている日本の国民の意識が見えてくるようだ。
国民は軍隊は国民をまもるものだと思い込まされているが、実際、軍隊は国民ではなく国家をまもるための暴力装置としてはたらき、国民にはむき出しの暴力が向けられると学べる。(参考・栗栖弘臣〈第十代統合幕僚会議議長・自衛隊制服組トップ〉『日本国防軍を創設せよ』小学館文庫二〇〇〇年)
軍隊はコントロールされるべき暴力装置である。そして、その主権は国民であるということを確認し、またそれを国民に保障するのは憲法九条である。毎日、暴力によって問題解決をする訓練と暴力による作戦を練っている人びとの手にそれを委ねるのは大変危うい。それは何故か。
・余の人を強縁とするな!!
宗祖親鸞聖人は、仏教という目覚めていく生き方と権力のある人との関わり方を深く、するどく見抜いていた。いや、念仏の信心という目覚めていく生き方は、そこに具体的な徴(しるし)が生まれると示した。 ただ、それは一つの鋳型にはめ込まれるようなものではなく、それぞれが歴史社会との関わりから徴がうまれるといえる。
『親鸞聖人御消息』(一七)に「余の人を強縁として念仏ひろめよと申すこと、ゆめゆめ申したること候はず。きはまれるひがごとにて候ふ」とある。 社会体制の権力構造の中で、人間の我欲と我執によって不条理な矛盾や隠蔽擬装が生まれる。 親鸞は、当時、朝廷や天皇などが道理に背いていることを信心の徴として明確に批判した。そして、社会体制の中で権力に追随して生きる人びとを「余の人」といい、それらの人びとと手を組み仏法を弘めようと考えることは「きはまれるひがごと」と厳しく言い放っている。 これは現在も、信心に生きるところに権力構造の歪みや偽りが見届けられることが問われている。どれほど有名で効率よくとも「余の人」と手を組むことは自らの教えを陥れるからだ。
・法に生きる
地元民は、海難事故の直後、海岸で集まり「御法楽」という仏教の行事を始めた。そして、25日、捜索を打ち切るのに当たり「浦終い」という仏法の行事で終えた。
この世のことは、虚仮なることであり、当てたよりになるものはない、そして、このことに目覚めさせる仏法こそがまことなるより所だと聖徳太子(574〜622)は見抜いた(「世間虚仮唯仏是真」)。
春一番は人間がコントロールすることはできないから、身を守る対応をしてきた。軍隊や国家は人間の作り上げたものだから、虚仮なるものだが、それをコントロールするのは仏法に目覚めた私たち念仏者の生き方にある。
仏暦2501(2008)年2月25日夜記す
本多 静芳
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