最近のニュース
社会 08.04.16 



映画「靖国」上映自粛劇



   「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」
『歎異抄』より


 ・「元社長逮捕」と「チベット暴動」という報道を考える

 日本の司法により無罪となり人権を保障された人が、〇八年三月、アメリカ司法局によって容疑者として逮捕されました。しかし、報道は日本で無罪の人を「容疑者」と決める表現をしています。局によっては、「××元社長」と呼びますが、容疑者であり犯人でもないのに、誰か個人を特定できる報道は、人権を無視しているだけでなく、視聴率をあおる商業主義的で安易な姿勢があります。
 一方、世界の心ある人びとを震撼させたチベットにおける騒乱に対する中国当局の武力弾圧の様子を「チベット暴動」と表現する報道がありました。こうした中国政府寄りの表現に意識をしていないとチベットの僧侶や人びとが一方的に暴動を起こしているかのような印象を受けます。
 こうした例は枚挙に暇がありません。男性側の無意識やそれに引きずられる人びとが問題で女性の差別被害を引き起こしている事を「女性問題」といったり、イスラエルの対外政策が問題でパレスチナの人びとに武力被害をもたらしている事を「パレスチナ問題」といいます。まったく間違った表現とは言えませんが、問題を曖昧にしたり、人権意識や報道に対する意識を低下させます。



 ・具体的な現場が見えないと抽象的になる

 過日、温室効果ガス排出量の上位日本企業が発表されましたが、「温室効果上位企業」という新聞見出しから、よいイメージを思い浮かべました。「温室化」は野菜花卉栽培の「温室」を想像し、良い企業のことかと思ったからです(私の発想が貧弱でした)。これも思い込みの問題です。
 「地球温暖化」というと南国の暖かいイメージが湧くから問題意識にならず、人ごとのままです。「地球高熱化・灼熱化」といえばわがこととして考えると聞いたことがありました。何気なく見過ごしていると自分が大切なことを見失い、周りを理解出来ない生き方になります(無論、なかなか理解は出来ないのですが)。
 朝日新聞(〇八年三月二八日)の天声人語に、日本の食料自給率が極端に低いことが紹介され、世界的仏教者・鈴木大拙博士(一八七〇〜一九六六)の言葉で締めくくられていました。
 「食べる人は抽象的になり易く、作る人はいつも具体の事実に即して生きる」
 便利で快適な生活をして、問いを忘れている私たちは、具体の事実から離れて抽象的なものに慣れているようです。その結果、本当の理由を考えないで過ごし始めているのではないでしょうか?



 ・映画「靖国」上映拒絶という「優しさ」

 この春、ドキュメンタリー映画「靖国」が各地で上映拒絶にあいました。理由は、上映することで周りに迷惑をかけないようにするという「優しい立派」な判断で、これを自主規制といいます。
 優しく立派であれば、その理由は問いにしないまま、善いことだという絶対の判断が下されます。そしてそうした優しい立派な人びとがあふれれば、その人たちは、そうでない人たちを見つけ出し、糾弾(バッシング)します。すると、そうしたことに対して異論を唱える余裕が社会になくなり硬直化していきます。つまり、物事を一面から善悪を決めつける社会は、住みにくくなるということです。まさに時代という劇場の舞台には「優しく立派な善人」ばかりが登場しています。



 ・森達也監督の『視点をずらす思考術』講談社現代新書より

 この著の目次には、「少し視点をずらすだけで違う世界が見える」、「社会の多数派からずれる」という見出しと並んで、「親鸞が残した『わからない』の教え」とあります。読んでみると親鸞さまは、この世の見方を真仮偽という三つに分け、真偽・善悪という二元論で判断しなかったと指摘しています。氏は、「単純でわかりやすい言葉を使う政治家が支持されて、悪は悪として切り捨てられ、正義や善意は暴走する」(p107)と指摘しています。
 親鸞さまは、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」(何が善か何が悪か、私には決めつけることはできません)といいます。それが本当であり、私たちの抱えている身の事実です。そして、その認識からのみ、このかけがえのないいのちの見方や生き方は始まるのだというのです。
 そのような視点に立つことが事実に即するということなのでしょう。私たちは安易にものごとを決めつけていないでしょうか。私が親鸞さまの教えに生きるということは、善悪という単純な判断を楯にして、物事を考えさせなくさせるような現代の状況に対して考え、ものを言い、行動していくということの大切さを改めて教えてくれるものだと思います。映画を始め、マスメディアを取り囲む状況は、とても偏ってきているからこそ、いよいよ念仏の信心は私たちを揺り動かすのです。陳腐な言葉ですが、「それでいいのか」「気づけよ、目覚めよ、身の程知れよ」と。



仏暦2551(2008)年4月15日記す
 本多静芳