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コラム 08.05.16 



「浄土真宗の教章」について



   浄土真宗本願寺派の「浄土真宗の教章」が新しく制定されました。これは、今年4月1日に定められました新「宗制」の変更に伴うものです。変更前の宗制は、昭和21年9月11日制定のものであり、それ以前の国家戦時体制に順応することが教団であるといった理念を引きずった内容であったので新宗制の制定となったものでした。(新宗制についての教団のコメントはhttp://www.hongwanji.or.jp/shumon/info/info_shusei.html#1-21参照)
 以前の教章は宗派の教義などをわかり易く表現するため、1967年4月15日立教開宗記念法要の日に、第23代宗主勝如上人が制定されたものです。以下は私個人の想像を加味しての論評であることをお許しください。

 さて新しい教章ですが、まず「浄土真宗の教章」の下に(私の歩むべき道)と表記されています。先の教章は(私の宗教)で、この表記は、「家の宗教」から「個人の宗教」へという願いから生まれたものです。しかし昨今の行き過ぎた個人主義をおもんばかっての変更であろうと思われます。教章が私個人の道の表明にとどまるものでないことは、この教章の発布が「龍谷門主 大谷光真」で出されているところに注意する必要があります。大谷光真名の発布はご門主就任のおりに出された「教書」も同じです。ご消息は「釋即如」が通常で内向けのお手紙です。「龍谷門主 大谷光真」の表記は、宗派内にとどまらず一般社会へ向けてのメッセージであると思われます。

 次に宗名と宗派を分けて表記(以前は宗名"浄土真宗本願寺派"とだけ表記)されたことは、御文章(一帖十五通)の「開山はこの宗をば浄土真宗とこそ定めたまえり」を受けたもので、"浄土真宗本願寺派"では、単なる団体名になってしまいますが、宗名を独立させることによって「本願力回向を宗とする団体」となります。

 宗祖名が「見真大師 親鸞聖人」の大師号が削除されたことも見逃せません。見真の大師号は明治9年11月28日明治天皇から宣下されたものです。上から下という力関係の中で賜ったものを恭しく表記することを止めたということです。大谷派では数年前から御堂の見真大師の諡号(しごう)額を撤去していたようですが、本願寺派も同じ方向に行くのではないかと思われます。本来、法名は国家権力の外に位置するものです。以前、組巡教でご門主のお供をした折、車中で法名が会話の話題となったことがあります。そのときのお言葉に「戸籍の俗名を法名に変更する人があるようですが、どうかと思う」と言われました。戸籍は国家の法の下に位置づけられるものです。法名は国家権力外の仏法領のものです。法名を頂戴して戸籍の名を法名名に変更することは、世俗の法の下に自分を位置づけることになるからです。見真大師を削除されたことは、国家権力との関係を示すものです。

 またご往生の西暦表記を1262年から1263年にしたことはすでに周知のことだと思います。4年前、当時筑波大学の教授(現名誉教授)でありました今井雅晴先生に面識をいただいた折、歴史年号の記述・西暦と和暦との整合性について伺ったことがあります。先生は外国との交渉があるときだけ整合性をもたせて整理して記述しているが、その他は配慮せず弘長2年はそのまま1262年といった具合に表記しているとのことでした。その頃、宗派が1263年表記を発表したときであったので、私は懇親の席で師にお願いしました。「門徒の師弟が大学受験か何かで聖人の往生の年を1263年と書いてバツをもらっては申し訳ないので、ぜひ歴史の年月日表記に未整理の問題があることを論文で書いて下さい」と。帰りぎわ師は「分かりました。やってみます」との返事でしたが、歴史年月日の表記の問題は、宗門内だけの問題にとどまるものではありません。

 次に本山・本願寺の名の上に「龍谷山」を正式に明記されました。龍谷を一文字であらわして「オオタニ」と読み東山大谷の地名であったものを、十四代寂如宗主が本廟本堂にみずから「龍谷山」と親筆して掲げて山号とされたことに始まります。大谷本廟の報恩講を「龍谷会」と称することもこれによっています。しかしこのたび洛中の寺院は山号を用いないという考え方を廃し「龍谷山」の山号を本願寺の正式な山号としたことは、洛中の一寺院というわくをこえて、本願寺を表したとも思われます。

 そして最後の「宗風」はこの言葉自体が一般に使用される言葉ではないから「宗門」と改め、「人道世法を守り」という文言をなくし、「阿弥陀如来の智慧と慈悲を伝える教団」という宗門の主体性を前面に出した宗門の願いで閉じられています。

 ざっと新教章について気づいたことのみをお伝えしました。


西原祐治