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コラム 08.06.16 



秋葉原事件と私たち



    一体、容疑者とされる人の犯行動機をどこまで分かるのかと私が問われれたとする。
無論、そのような陳腐な問いに本当のことは何であったかと答えようとしても、誰も分からないとしか応えようがない。
それなのに、ニュース報道やワイドショーは、さもありなんという解説を垂れ流す番組作りをしている。
肩書きのある大学教授まで出てきて発言することで、自らを貶めているようにしか思えない。

    それだけではない、国家(国営)放送、民放放送を問わず、同じような発想で犯人像を分かったように推測して、分かったような思い込みの報道をする。
つまり、犯行の動機は、たぶん、こうであったろうという予断と推測に基づいて、私たちの関心を収束させようとする。
それを聞けば、それが犯行の原因であったのだろうと聞いた者は思い込み、そして、明日から、安心して生きていけるという、これも妄想なのだが、そうした思い込みによって自己を納得し、社会生活を続ける。
それは、あたかも「綿密な計算と完璧な管理が支配する理性空間」という「養殖場」に生きる「養殖魚」にとっての好都合の応えではあるまいか。
しかし、私たちの「究極的な関心」をまったく満たしてはいない。
(近代社会のあり様を「養殖場」に譬える表現は、故・平野修氏の遺稿となった真宗大谷派名古屋別院『名古屋御坊』1995年9月10日号の「『近代』が生みだした危機と暴力(上)」より引用。同文は、平野修遺稿集『荒野の白道』1995年11月14日明證寺発行所収)

    だから多分、心ある人びとは、どこかで、今の報道の胡散臭さを感じている。
いま、これを読んでいるあなたかもそうかもしれない。
つまり、報道される解説は、果たしてそうなのか、という疑問を抱いているのではないか。

私は南無阿弥陀仏と称える。
    それは一歩、立ち止まって考えてみることだ。
いや念仏者だけでなく、これだけ、垂れ流される喧しい報道に、人は、さて、と考えたくなるのではないか。
たとえ、そう考えていなかった人でも、私のこの文言を読んで、如何だろうか。

問題は、完全には掘り尽くせなどはしない。
    言い換えれば、犯行の動機など、簡単にこの私やあなたに、そして、多分、彼にも今は分からない。
そして、そうした問題を隠蔽するほど、この社会の仕組みは複雑である。
言い換えればそれほど、簡単に分かるものだとするような、今の社会のあり方の抱える闇は深い。
多分、その闇を作りだしたのは、今報道されている解説の言葉でいえば「派遣社員」という言葉で済ませようとしている状況だろう。
つまり、別の言葉でいえば、経済性や合理性のみを追いかけた私たちの意識と重なるだろう。
それは戦後でなく、明治維新以降の富国強兵策まで遡るかもしれない。

皆、どこか、おかしいと思っている。
    それが私たちの社会が作ってきた仕組みであり、もしかしたら、それが私の心の仕組みではないか。
それほど、今回の事件を巡る問題は深い闇の中にある病といえるのではないか。
私には答えは出せない。
問題点は「派遣社員」「希望をなくした若者」「依存的な行動」などという言葉でその一部を見せてはいる。
しかし、そうした社会を利用して安閑としていられるのは一体、何なのかということが問われる。
他人事としてはいられない、しかし、私の心の問題だと観念に陥ることもできない。
その問題を深く、掘っていくのは、私が念仏を称える生活だと思っている。


本多静芳