漫画家の赤塚不二夫さんの葬儀・告別式が8月7日午前、東京都中野区の宝仙寺で営まれ、「肉親以上の存在」と慕っていたタレントのタモリ氏が弔辞を読まれました。
話題となったのはその長文を白紙のまま読んだのではということでありました。しかしそれだけではなく、私たちに何かしら感じさせる言葉がそこにあったためだと思います。いずれにしても、これほど弔辞というものが取りざたされたことはかつてなく、また同時に、これからの葬儀における弔辞のあり方、そして死生観にまで少なからず影響を与えたように思います。
そもそも本願寺派の葬儀の法式規範には弔辞という概念がありません。これはほかの宗派も同じかと思います。むしろ法話をいただくとによって私たちは亡き方を通してのわが身の学びをいただく場ということを大切にしてきました。しかし近年では弔辞ということが多く行われるようになっております。私たち僧侶も葬儀にかかわる身としてそのあり方は注目せざるをえません。
第三者である私が分析めいたことをするのは無粋のきわみかもしれませんが、今回のように話題になった弔辞を考えることも大切かと思います。なにより私自身も今回の弔辞で多くの人が心動かされたということに関心があるのです。
この弔辞の中でタモリ氏は、自分と赤塚氏との出遭いから、長年にわたるつきあいをたんたんと読み上げていきました。その中で、タモリ氏は、赤塚氏の人をひきつける圧倒的な懐の深さを、氏から受けた「ご恩」を読み上げることによって、また氏の作品の中で登場するキャラクターのキメ台詞に重ねて見事に表現しました。そして私たちは、二人の関係を通して、出遭いの大切さ、不思議さ、そしてそういった関係があることの暖かさを思い起こさせるものでありました。それはお金では決して充当できない価値観を一瞬でも共有させてもらった弔辞であったような気がします。タモリ氏が赤塚氏に対する恩というものの深さをもっとも端的に表した言葉が、「私もあなたの数多くの作品の一つです」という言葉かと思います。多くの成功を得たタモリ氏がいまここにあるのはあなたのお陰であるという感謝の言葉であると同時に、今日が終わりではない。私をはじめとしてこれからもあなたの作品は生き続けますというメッセージであるように思います。また、氏からの「ご恩」を感じながらも「ありがとう」と言えずに過ごしたことがすでに過去のことになった。いま「ありがとう」ということで、すなわちあなたがいなくなった現実を受け止めざるをえないという悲しみの姿が共感をよんだように思います。
もうひとつ、人々が心動かされた大きな理由として考えられるのは、赤塚氏が、いまこの場で弔辞を読んでいるタモリ氏本人に、「お前もお笑いやってるなら、弔辞で笑わせてみろ」と普段どおりに語りかけている一文ではないでしょうか。この一文が読み上げられたことで、私たちは多くの安らぎをえられたように思います。それは亡き人と私にまだ接点があるという世界観です。
このような世界観は私たちはすでに、「千の風」の歌詞から、近年急速に取り込んできたと思われます。亡き人が私を見守り続けてくれる。「見守る」ということは、私たちが「見守られる存在になる」ということです。それは私たちの生き様が問われるというあらたな出発であるということです。このような表現にもたらされたものは、死がもたらすものは喪失だけではないという気づきであります。
そういった意味では、「千の風」を持ち出すまでもなく、私たち念仏者は親鸞聖人のお書きになった「正信偈」を日々お勤めする中でそのような世界をいただいてきておりました。「得至蓮華蔵世界 即證真如法性身(蓮華の国にうまれては 真如のさとりひらきてぞ)」「遊煩悩林現神通 入生死薗示應化(生死の薗にかえりきて まよえる人を救うなり)」
つまり私は阿弥陀如来のご本願のとおりにお浄土に行き、仏となり、この迷える世界にもどり、そして迷えるものを救うということです。これを還相回向と申します。念仏者である讃岐の庄松さんは「あんたが死んだら立派な墓を建てて上げる」という友人の言葉に「わしは石の下にはおらんぞ」という言葉を残したという逸話に通じるものです。
ただこの場合は仏となる主体はあくまで「あなた」ではなく「私」でありますので、亡き方が千の風になるということとは視点が異なるものであります。また阿弥陀如来のご本願をいただくからこそ還相回向の世界も成立いたします。しかし、いずれにしても、死んだあとにも私たちは何かしらの役割を担っていくという来世観であります。
「草葉の陰から見守る」という表現も古くから耳にしますが、それとはあきらかに異なる能動的な陽気さが人々の中に確立しているといえるのではないでしょうか。
これらのこととあわせてもう一度「弔辞」というものが果たす一般的な役割を考えてみたいと思います。
亡き方が生前にたどられた足跡を通して、たしかにその方が命というものを輝かせていたということを確認する作業であるといえます。また特に近親の方にとっては、身内が知らなかったような足跡を聞く事で、あらたなる人物像として描きだされることで、喪失の中にあっても、それだけではない何か生産的な、再構築という正の作業をもたらせるような気がします。それは悲しみの中でどこか癒しをもたらすものであると思います。
これはグリーフワークと呼ばれるものであり、今後その作業のあり方は、私たち僧侶も含めて、葬儀にかかわるすべての人々がよりよい環境づくりを提言していくべきテーマだと思います。
そしてわれわれ僧侶の立場からの意見を付け加えるなら、葬儀というその悲しみ中から、いろいろな気づき、学びを亡き方を通していただけたということ。そして私たちが亡き方をご縁としてどのような生き方をいただいていくかが問われるということ、それを忘れてはならないということです。
以上
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