釈迦生誕の日を祝日にしている国や地域は意外に多い。
仏教国と呼ばれる、スリランカ、タイ、カンボジア、韓国、台湾、香港などなど。
一昨年、韓国の花祭りにあたる、釈迦生誕の日(旧暦四月八日)に現地を訪れたが、ソウル市内は釈迦の生誕を祝う大小さまざまな提灯で飾られていた。韓国の釈迦生誕を祝う行事は前夜祭も含め、一週間ほどある。例年、生誕日前に一番近い日曜日には燃灯祝祭と呼ばれるパレードが行われているそうだ。もちろん、誕生仏に甘茶をかけるという行事もみられる。ソウル最大の寺院である曹渓寺では、祝日にあたるその日は、様々なイベントが行われ、参道には人があふれていた。一緒に旅していた私の友人もお釈迦さまを慕って集まる人々の姿に感動すら覚えていた。
ひるがえって日本は祝日とまではいかないが、四月八日に各地の寺院や幼稚園などで行われている。韓国の釈迦生誕の日の盛り上がりほどではないが、稚児行列や、甘茶をかける子どもの姿を見るにつけ、微笑ましく一日を迎えさせてもらっている。
仏教者としては特にこの日は子どもたちに親しんでもらえるような日にしたいという思いがある。しかし、それと同時に、その釈迦の誕生には悲劇があったことも同時に説かねばならないだろう。なぜならそれこそ釈迦がこの世に生を受けたということ以外に、仏教が生まれるきっかけの大きな要因となったともいえるからだ。
釈尊の青春時代は「人生」について、そして「生存」についての煩悶とともにあったといっていいであろう。それは仏伝としては「四門出遊」や「樹下思惟」といったエピソードにも語られている。また城での享楽に満ちた生活にはあまり興味を示さなかったということもよく耳にするところである。
これらのことは「釈尊は生まれつき体が弱かった」という言い伝えとあいまって、釈尊の思慮深い性格がともすれば生得的なものとしてイメージされる向きがある。しかし釈尊が城を出るまでに思いつめられた「生」についての問いの本質は、もっと深いものがあったと考えるべきである。
仏伝によれば、実母マーヤは太子出産後7日後に亡くなっている。考えてみると、自分を産んでわずか7日後に亡くなった母を思うと毎年の自らの誕生日も喜べるものではなかったのではなかろうか。
そんな太子だからこそ「生きる」という根源的な問いを探すために出家の道を選ばれたのだともいえるのだ。
私たちは、人生という舞台にいきなり立たされた役者ともいえる。何をたよればいいのかわからずにただうろたえるばかりだったかもしれなかったのである。
そんな私たちも、仏法と出会うことで、人間釈尊の苦悩が後の世の私(たち)を導いてくださるための第一歩であったのだなと有難くいただかせてもらえるのである。
花まつりを迎えるにあたり、そのような思いを新たにしている。
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