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憲法改正法施行について思う



憲法改正法施行について思う


・国の形を変える可能性〜5月18日を迎える

 平和憲法として、内外にその評価を得ている現行の日本国憲法を「改正」しようとするための法案が国会に提出され三年がたとうとしています。この法案(2007年5月18日法律第51号)は、日本国憲法の「改正」に必要な手続きである国民投票に関して規定する法律です。よく国民投票法という名に言い換えられているために、憲法を「改正」するという面が伝わりにくいのは、今までも、その内容とは全く別の、あるいは反対の意味に受けとめられるような名称を用いて政府が喧伝してきたのと同じ経緯があります。
 その法案は一部が施行済みですが、主要の規定はこの5月18日に施行されようとしています。この国の形が変わろうとしています。つまり、戦争をすることができる「普通の国」にしようとしているのです。



・真宗大谷派は反対決議を発表

 真宗大谷派の最高議決機関である宗会(常会)で、2005年6月14日『核燃料サイクル推進に反対する決議』と共に、『日本国憲法「改正」反対決議』が可決されました。
 その内容は以下の通りです。
(詳しくは、http://www.tomo-net.or.jp/info/news/050615_2.html)
「今年、私たちはアジア・太平洋戦争敗戦60周年を迎えました。1931年の「満州事変」に始まり、1945年8月の広島・長崎への原爆投下に終わった15年にも及ぶ戦争一色の年月の中で、日本国民約300万人、アジア諸国民約2000万人の命が奪われ、その悲惨な傷跡は未だ癒されることなく国内外に深く残っております。
 1946(昭和21)年に公布され翌年施行された「日本国憲法」で私たちは、「国民主権」「基本的人権の尊重」「戦争放棄」の三原則を国のあり方の根本と定めました。この「日本国憲法」は、二千数百万人にも及んだ余りにも大きな犠牲へのおののきと、人類の滅亡すら危惧される核の時代がもたらす底知れない不安感を背景に、「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」して生み出されたものでありました。
 しかしながらその後、日本政府も私たちも、国の基本法である「日本国憲法」に謳われた精神を具現化することをおざなりにし、戦争犠牲者から託された、恒久平和構築の悲願を忘れたかのように、経済的物質的豊かさのみを飽くことなく追求してまいりました。まさに「恥ずべし、傷むべし」と言わざるを得ません。
 私たち大谷派宗門もまた、「遠く通ずるに、それ四海の内みな兄弟とするなり」と本願念仏のみ教えをいただかれた親鸞聖人を宗祖としながら、宗祖聖人の仰せにもなきことを聖人の仰せと偽り、釈尊の「兵戈無用」の金言を忘れて、戦争遂行に協力をしてきました。
 戦争の悲惨さを知る人が少なくなりつつある今、日本国民が、「国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓」った「日本国憲法」を「改正」しようとする動きが急加速しております。ことに2001年9月に発生した同時多発テロ以降、アジア近隣諸国との関係悪化に便乗するかのように、「戦争放棄・戦力不保持・交戦権の否定」を謳った第9条の「改正」を中心とした憲法「改正」への動きが俄に現実味を帯びてきました。
 「世のなか安穏なれ、仏法ひろまれ」と宗祖の仰せをいただき、1995年・戦後50年に当たって「不戦決議」を採択した私たちは、宗門の負の歴史を心に刻み、「日本国憲法」を生み出した戦争犠牲者の声なき声に耳を澄ませて、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を「国際紛争を解決する手段」として「永久にこれを放棄する」意志を再確認し、今般の「日本国憲法」「改正」の動きに対して、真宗門徒として強く反対の意を表明いたします。 2005年6月14日 真宗大谷派宗議会」



・念仏者九条の会の目指すもの

 今、自衛隊は海外派兵され、解釈改憲で憲法は死に体に近い状態です。もしも憲法が変えられ、「戦争をする普通の国」として明文化されたら、どんな社会が生まれるのか大変危険な状況です。
 敗戦60年、憲法は古く時代に合わないと喧伝され、07年、先に述べた憲法改悪国民投票法が通過しました。改悪しようとしているのは、第20条(信教の自由)、第24条(男女の平等)等を変更しようとするものですが、特に「戦力の不保持」「武力行使を否定」を謳う第9条が中心です。
 しかし、99年、平和実現を語ったハーグ国際会議は「すべての国家の議会は、日本国憲法第9条が定めているように、政府の戦争参加を禁止する決議をすべき」と決議し、21世紀に第9条は光り輝くものだとしています。
 かつて本願寺教団も、親鸞聖人の教えを曲げて戦争を賛美推進する「戦時教学」を打ち立て、アジア侵略戦争を「聖戦」と呼び門徒を戦争に駆り立てた歴史があります。その教学では、正しい仏教は天皇の命令であり、それに背くものは浄土に往生できないと拡大解釈し、戦争に参加することは菩薩の行となり、戦闘で死んだものは必ず浄土に往生すると説き、多くの門徒を戦争に動員しました。教団をあげて、神祇不拝の教えに背き、現人神や靖国神社に拝跪し、戦勝祈願をし、鬼畜米英と言って人殺しを勧めました。ところがこうした主張をした人びとは何の責任表明や自己反省もなく今に至ります。
 私たちは、戦前の日本と本願寺教団の辿った歩みを思い起こし、教訓としなければなりません。そこに生まれたのが念仏者九条の会です。本願寺派の僧侶と門信徒約1200名(09年11月現在)が、念仏者の「世をいとうしるし」として03年に立ち上がった任意の団体です。
 不十分ながら私たちの教団は、「教団の戦争責任を明らかにする」取り組み、「千鳥ヶ淵墓苑での全戦没者追悼法要、各教区や組での〈平和のつどい〉」の開催、「靖国神社公式参拝反対など、日本政府等に対する声明」等の発表を、私たち在野の運動と連携して行ないました。過去の過ちを直視、慚愧するところから生まれたのが、念仏者・九条の会であり、様々な平和への営みです。



・軍隊は国民を守らず、国家を守る〜九条は国民を守り、国際平和関係を守る

 全体主義の正義を主張する時、相手国の戦闘員・非戦闘員を殺戮するだけでなく、自国民の戦闘員・非戦闘員をも道具として殺戮しましす。国家を絶対化する教学の理解は大きな過ちと悲しみをもたらすことを慚愧し追悼しなければならないでしょう。
 そこから生まれたのが、恒久平和を掲げる第9条や、宗教が政治に利用されない権利を掲げる第20条が謳われている現憲法です。国家が暴走しないように主権者が制限する枠組みが憲法です。
 これは人間の非常に深い叡智から生まれたものですが、観念論だとか、押しつけだといわれ、挙げ句に他国が侵略してきたらどうするのかという論議が、憲法を守るべき公務員である議員からでます。しかし、海外からも大きな評価を受けているこの憲法を掲げてきた間、一度も他国からの武力干渉を受けずに済んだ事実を忘れてはならないでしょう。
 戦時中、軍隊は国民ではなく国体を守りました。元幕僚長の発言(注)からも自衛隊は、国民は守らず、国家を守るという基本的態度が表明されています。つまり、一度、武力の侵略を受けるような状況を作ったら、軍隊は国体や国家を守る暴力装置として機能し、国民にも暴力が向けられ、平和を掲げる状況はそこで終焉を迎え、瓦解してしまうのです。つまり他国から侵略されるような状況を作ることこそが、まさに手遅れとなるのです。だからこそ、平和を掲げる姿勢を示し主張し続けることが重要です。
 『無量寿経』に「兵戈無用」という言葉があります。仏の願いに人びとが生きる世界には、兵隊も武器も無用になるという意味です。憲法第九条は、人間の願いだから、仏の願いには行き届かないとしても、仏の願いに生きようとするとき、第九条を大切に掲げ、決して殺し合いをしてはならないという生き方となります。
 自然は制御できないから人は自然から身を守る対応をしましたが、国家や軍隊・武器は人が作ったものだから主権者によって制御されるべきだと主張し続けるべきです。これは、平和を希求する世界の宗教者と共に同調していける主張だと確信しています。過ちを繰り返さないため、私たちと教団は平和実現活動をすべきです。

(注)栗栖弘臣『日本国防軍を創設せよ』小学館に、「軍隊は国家だけを守る。軍隊が国民をまもるというのは誤解だ」(抄出)とある。


2010.4.16
念仏者九条の会東京代表・万行寺住職
本多 靜芳