・いいのか?わるいのか? 一体どこに焦点を当てているのか?
関東地方は、6月14日に梅雨入りしました。
梅雨は、カタツムリが出てきたり、あじさいの花が美しかったり、とても楽しい季節ですね。
しかしながら、同時に湿っぽく、うつとう鬱陶しい、私にとっては大変苦手な時期でもあります。
ところが、もっと大きな視点でみつめると、この時期、アジアの亜熱帯である日本の諸地域に、大量の雨が降ってくれることで大地がうるおい、そして、稲作のために大変な恵みになるという水の大きな循環について教えてもらったことがあります。最近のニュースを通して、このように狭い視点と広くて大きな視点の違いを浄土真宗の仏教の学びから考えていただければと思いました。
菅直人首相は、15日の参院本会議で、靖国神社に参拝するかどうかについて「A級戦犯が合祀(ゴウシ)されているといった問題などから、首相や閣僚が公式参拝することには問題がある。首相在任中に参拝するつもりはない」と述べた。首相は答弁で「これまで個人的には何度も参拝した」とも語った。自民党の佐藤正久氏の質問に答えた。
首相はこれまでも、2002年の民主党代表選で『A級戦犯が合祀されている』として首相に就任した場合は参拝しない考えを表明。06年には「小泉氏がわざわざ問題にして、最大の懸案になった」と当時の小泉純一郎首相の靖国参拝を批判。日中、日韓などの外交関係が停滞する原因になったと指摘していた。 (以上、アサヒコムより http://www.asahi.com/politics/update/0615/TKY201006150321.html)
|
前半に、「A級戦犯が合祀されているといった問題などから、首相や閣僚が公式参拝することには問題がある。」というように、「A級戦犯合祀」以外にも、首相や閣僚が靖国公式参拝には問題があるという含みがあるように言っているように聞こえますので、菅首相は憲法に保障される「信教の自由・政教分離」の問題を自覚していらっしゃるのかなあ、と私は期待をもちました。
しかしながら、後半を見ると、「02年の民主党代表選で『A級戦犯が合祀されている』として首相に就任した場合は参拝しない考えを表明」というように、問題は「A級戦犯合祀」であるかのようにしか聞こえてきませんし、多分、靖国神社公式参拝の問題に対する菅首相の意識も、「A級戦犯合祀」以外には向いていないように思われます。というのも、前半部分で、「これまで個人的には何度も参拝した」というように、ご自身の宗教的な意識や立場は靖国神社を参拝する宗教的な信条の持ち主であるということを明言しているからです。
・仏教の立場から「信教の自由」を守る(財)全日本仏教会の要請文
私たち浄土真宗本願寺派の一般寺院を含めて、現在、日本には約75、000の伝統仏教の寺院・教会・布教所等があります。それらの多くは、いずれかの宗派(教団)に所属していますが、それらの主要な58の宗派を中心にして、さらに都道府県仏教会・各種仏教系団体等も加盟している我が国の伝統仏教界における唯一の連合体を財団法人全日本仏教会といいます。現在、全日本仏教会(全仏と略す)に加盟している102の宗派・団体に所属する寺院は、全国寺院数の9割を超えているという状況です。参照サイト http://www.jbf.ne.jp/d00/index.html
私は、この全仏の諮問委員会である社会人権委員会の委員として嘱託されています。この委員会の役割は、憲法に説かれる「信教の自由・政教分離」の問題、人権・差別と宗教の問題について、理事長から諮問され、それに応えるというものです。具体的には、靖国の公式参拝という憲法違反の問題、そして、宗教者の関わる人権差別の問題です。
全仏では、この諮問委員会の答申を基に、毎年7月になると、全仏理事長の名前で、内閣総理大臣に宛てて、「首相及び閣僚の靖国神社公式参拝中止の要請文」を提出し続けています。以下、昨年の要請文をご覧ください。
(参照サイト http://www.jbf.ne.jp/pdf/552.pdf)
首相及び閣僚の靖国神社公式参拝中止の要請
本会は、首相及び閣僚の「靖国神社公式参拝」に対して、反対の意志を表明し、公式参拝中止を要請いたします。
靖国神社は、特定の基準をもって合祀の対象とした戦没者を神霊として祀る神社であり、純然たる宗教施設であることが明白であります。
拠って、一宗教団体である靖国神社に首相及び閣僚が公式参拝することは、どのような形式をとりましても、憲法に定める「信教の自由・政教分離」の原則に違反することは疑いの余地がございません。
最高裁判所は、靖国神社等への公金支出が、金額の多寡を問わず憲法違反に当たるという、明確な判断を示しております。
私たちは、戦後64年のあいだ日本国民が守り育ててきたこれらの憲法の規定こそが、今日の日本の平和と繁栄の礎となっていることを、改めて確認し伝えていきたいと思います。
戦没者の追悼は、国家が特定の宗教に関わって行うべきものではなく、各ご遺族がそれぞれに真実と仰ぐ宗教によってなされるべきものであることは、当然のことであります。
以上の理由から本会は、首相及び閣僚が、靖国神社への公式参拝をなされないよう、強く要請いたすものであります。
2009年7月24日
財団法人 全日本仏教会 理事長 豊原大成
内閣総理大臣 麻生太郎殿 |
つまり、問題点は、国民の宗教的な自由を保障している憲法に違反して、公務員であり、なおかつ影響力の大きな首相や閣僚が、一宗教法人でしかない靖国神社に公式参拝しているという点です。「A級戦犯合祀」ということは、むしろ日本人の歴史観や対外的な問題であり、今問題となっている「信教の自由・政教分離」とは別の問題だといえます(無論、「A級戦犯合祀」も大きな「政治的問題」です)。
要請文にもあるように、「戦没者の追悼は、国家が特定の宗教に関わって行うべきものではなく、各ご遺族がそれぞれに真実と仰ぐ宗教によってなされるべきものである」という「信教の自由・政教分離」の重要性を全仏は、主張し、また各宗派や各寺院などが同じように大切にしている点です。(今年は与党政権が前述のように靖国参拝はしない表明をしているのですが、「信教の自由・政教分離」が無くなり戦前のような全体主義になることを全仏は反省と危惧をもって今年7月に要請文を出す予定です)
・問題が見えてくる、自分が見えてくるのが、お念仏のおすくい
この問題は、よくよく考えると「私は一体どのような宗教に基づいて、故人を追悼しようとしているのだろうか?」という重要な問題とつながります。そして、この問題は普段、私たちの社会ではあまり気にもせずに見過ごされています。つまり、問題が見えていないということであり、それはそのまま自分が見えてないということでもあるのです。
例えば、有名人の死を伝える報道で「めいふく冥福を祈ります」という言葉が疑問もなく使われていますが、この意味は、故人は死後、めいど冥土というくら冥い世界に行くでしょうから、そこで幸福があることを祈るということです。
仏教を学ぶと、仏教ではない宗教の姿が見えてくる、知れてきます。それは私自身が、今まで仏教ではない宗教性を気づかないまま、よりどころにしたり、それに振り回されていたということが見えてくる、知れてくるということです。
浄土真宗の生き方とは、念仏の信心を恵まれ、教えに目覚めて生きる者は、死後、すぐさま浄土という智慧の光の世界に往生の素懐を遂げて、すぐに仏と成り、この世に姿を変えて還ってきて、人びとを救い始めるという人生を生きぬくということです。
私は、浄土真宗本願寺派の直属の学校の一つ、東京仏教学院の講師をしており、講義の中で必ず伝えることがあります。
「皆さんが、この学校を卒業し、お坊さんになるご縁に恵まれる人もいるでしょう(無論、既に僧籍をお持ちの方もいらっしゃいます)。すると、御門徒さんの年回のご法事や葬儀などの法要をお勤めになることもあるでしょう。しかし、その法要で、僧侶であるあなたの後ろに参詣した方がたが、『今日は亡くなった人のために法事をしている』という宗教行事のように受けとめられてしまったならば、あなたのここでの学びはまったく意味がなかったということになりますね。」
私が救われる浄土真宗の教えは、亡き人も私も共に救われる念仏と信心による成仏道です。それは、私が亡き人に何かをしてあげていると思い上がっていた愚かな自分の歩みが確かに見えてくることであり、そこにその私を気づかせた如来という真実の確かさが知れてくるという教えです。そして、法事に遇うとは、仏となった故人の確かな仏道の歩みを確かめ、自分も同じ道を歩もうと目をさましていくことです。
先人は、この念仏による信心という体験(生き方)を「お恥ずかしい、もったいない」とも、「慚愧と歓喜」とも、「頭が下がる、おかげさま」とも、様々な言葉で救われた実感を表現してくれました。そして、生かされて生きるお互いのいのちを大切に、そして尊び合う社会の実現を目指して浄土真宗を次の世代に伝えてくれたのでした。
梅雨の雨に降られながら、首相の発言の一側面しか報道できない文化となっている私たちの社会の宗教性に思いを巡らせてみました。
|