A: 結論から申し上げます。厄払いをする必要はありません。「厄年」ということを信じること自体が、迷いの中にあることの現れです。仏教は、そのような迷いから私たちを解き放つ教えです。
先日、電車に乗っていましたら、聞くともなくこのような会話が耳に入ってきました。
「最近いいことがなくてまいっているんだよ。パチンコも入らんしな」
「前はよく入ってたじゃないか」
「厄落としをしてきたんだけどなあ」
「神さまにそんなお願いをしたのか」
「いやあ、健康と家内安全を願ったんだが、こころの隅にはそれもあった」
年の頃は四十位でしょうか。実に自然にそんな話をしているのです。「厄落とし」とパチンコがどのような関係になるのか私にはわかりませんが、「厄落とし」という行為が、当然しなければならないことであるとの前提にたった話であるように聞こえてきました。
「厄」とは、災厄のことです。すなわち、身に降りかかってくる困難のことをいうのです。もし将来、我が身に降りかかってくる困難を避けることができるのなら、こんなに良いことはありません。ですから「厄落とし」とか「厄除け」「厄払い」という考え方がなりたつのです。
しかし、人生そんな簡単なものではないことは、だれが想像してもわかります。せっかく「厄落とし」をしてもらったのに悪いことが起こったと言って訴訟問題になったというような話も聞きませんので、せいぜい観光ついでのおまけぐらいの軽い気持ちで「厄落とし」をしているのではないかと思っていたのですが、あにはからんやです。
その日、友人の僧侶にその話をしましたら、「いや、世間では案外真剣なんだよ。特に、厄年などというとみんな必死なんだ」と教えてくれました。むしろ、「災厄」が身についているのではないかと、常に不安を感じているのだそうです。
私たち人間にとって、未来のことはまったくわかりません。したがって、将来のことについて不安を感じるのは、当然のことといってもよいでしょう。また、私たちは、縁にふれれば良くも悪くもなる可能性があります。その種を私自身が持っているのですから。しかし、どのような状況にあっても、それを正しく認識し乗り越えていくことこそが大切なことなのです。そして、良いときも悪いときも、たえず私のことを心配してくださっている仏さまを感じながら生きることのほうがずっと安心であります。
困難にあたって、またはそれを予測して、「厄落とし」をするというような考え方は、安易であり感心しません。むしろ不安を助長しているといってもよいでしょう。
小林 泰善
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