仏教ちょっと教えて 




080 占いが良く当たっているのですが


Q: もともと、それほど占いを信じるほうではないと思っていましたが、最近、どうも人付き合いで嫌なことが多く、たまたま目にした雑誌の占いを見て驚きました。
 そこに書かれていることは、正しく今の自分を言い当てていたのです。こんな時は、やはり控えめに行動し、家でおとなしくしておいたほうが良いのでしょうか?


A:      自分が人にどう思われているのか、これはとても気にかかることですよね。人に冷たくされたりして、特に思い当たることがない場合は、本当に不安になるものです。
 そんな時、雑誌の占いに書かれていることが的中しているように思えると、不思議と納得のいくことがあります。
 「自分は今、単に運命の下降線をたどっているだけであり、再び上昇するまでは、目立たぬように静かにしていれば良い」という仕組みが明瞭になるからです。
 「思い当たることがない」という不安や、「これからどうなるのだろう」という不安から脱却することができたということです。占いによって、心に安心がもたらされたとも言えるでしょう。
 しかし、少し考えてみましょう。これは本当の安心と言えるものなのでしょうか。

 現在の状況の原因が理解できず、これからの自分がどうなるのか、未来は常に不安の要素となります。できれば悪い方向へは進みたくありません。
 うまい方向への道が示されれば、これほど都合の良いものはないでしょう。しかし、未来に起こることなど、誰が予測できるのでしょうか。
 「未来」というように言葉で表しますと、私たちは無意識のうちに固定的に捉えてしまいがちですが、あらかじめ決まっていることなどありません。
 もし、人が決まっている道のりを生きるのであれば、意志というものは必要ないでしょう。運命というものは、過去を振り返った時、あたかも道を歩いてきたというような感覚からくる錯覚にすぎません。

 したがって、人にとってより大事なことは、これから先にどうなるのかということよりも、今をどう生きるのかということなはずです。このような時に、果たして占いが強い支えとなるのでしょうか。
 たまたま、占いの内容が今の自分に合致するようなこともあるでしょうが、当たる当たらないの問題ではありません。先々について、ああだこうだと虚しく語るよりも、実際に起きていることに対して真摯に向かい合う姿勢こそ、人生にとって建設的なあり方です。
 占いは今の自分を見失う原因でもあり、人の心の弱さを支えるどころか、ますます増長させていると言えます。
 なぜなら、占いを繰り返す状況の中では、決して自らへの反省の心が起こり得ないからです。結局は責任を他に転嫁し、間に合わせの安心を得ているだけなのです。

 占いに従うということは、言い換えれば、「自分は決して悪くはない」という気持ちの表れとも言えるでしょう。
 自分と気が合わない人がいると、どうしても「嫌な人だ」と思えてしまいますが、その人が絶対的に「嫌な人」なわけはありません。その人を好きな人もいるでしょうし、尊敬している人もいるでしょう。
 つまり、「嫌な人」ということは、自分の価値観において「嫌な人」なわけであり、自分が勝手に評価を下しているだけです。
 ここには、相手を「嫌な人」と固定的に決め付けている自分がいるだけで、絶対的に「嫌な人」はいません。

 世界は非常に複雑であり、私たちはそれぞれを言葉によって分別整理しなければ、全く落ち着くことができません。
 しかし、それが故に物事の本質を見誤ることもしばしばで、ますます不安は増すばかりです。
 人付き合いで嫌なことが多いと思う私たちですが、自分の分別の中でしか相手を捉えていないことには気づかず、「なぜだろう、なぜだろう」の連続です。
 いま起きている問題に真摯に向い合う姿勢とは、すなわち、この分別を作り出している身勝手な価値観の存在に気づかされていくということなのではないでしょうか。

 占いによる解決は、単に問題を先送りにしているだけです。
 本当の安心とは、このような愚かな自分に気づかされつつ、本質を見誤らない真実のものの見方に触れていくことです。真実のものの見方、これこそがさとりの境地であり、仏の安楽の世界です。
 しかしながら、「気づきなさい」という仏の呼びかけに対して、私たちは往々にしてそっぽを向き、不安の輪の中に自らを没し続けています。
 占いというような間に合わせの安心ではなく、仏の大いなるはたらきの中に生かされ、「気づきなさい」と強く支えられていることを感じることにより、真に不安からの脱却が果たされることでしょう。
 ただし、占いをすることにより、愚かな自分に多少でも気づかされたのならば、それも仏のはたらきだと言えます。
 仏の中に生かされるとは、正にこういうことだと言えるのです。いつでも呼びかけられている私たちなのです。


回答者: 伊東 昌彦


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