A: おっしゃるとおりお釈迦さまは実在された人物ですが、阿弥陀さまは歴史上実在された人物ではありません。しかし、だからといって阿弥陀さまを信じられないということはありません。お釈迦さまはご自身が悟られた法(法則)を、私たちが受け止められるように「法蔵菩薩(阿弥陀さま)の物語」として示され、その中に出てまいりますのが阿弥陀如来という登場人物(仏さま)なのです。
例えば「鶴の恩返し」という童話を考えてください。鶴が機(はた)を織るなんてことは現実にはありえません。ありえないことですが、この童話は子どもたちに「人間だけでない命の尊さ」と「約束を守る」という人の道のまことを教えてくれます。人の世の法則です。
「鶴の恩返し」を読んでそこに説かれている人の道をあなたはウソだ思うでしょうか。物語は架空ですがそこにはまことが示されているのです。
それと同じように「法蔵菩薩(阿弥陀さま)の物語」も架空ではありますが、人間の思慮分別(価値観)を超えたところにある涅槃(真のやすらぎ)に至る道(法則)が示されているのです。私たちは「法蔵菩薩(阿弥陀さま)の物語」に出てくる阿弥陀さまを手だて(方便)とする以外この法則を頷解(りょうげ)することは出来ません。
親鸞聖人は『一念多念証文』で、
この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。 これを尽十方無碍光如来となづけたてまつれるなり。 この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。 この如来を方便法身とは申すなり。 方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。
([註釈版聖典]690〜691頁)
と示されました。
「一如宝海」とは人間の思慮分別を超えた法則のことです。少し分かりづらいですがもう少し申しますと、この法則を領解する(導く)法則が「法蔵菩薩(阿弥陀さま)の物語」なのです。この物語は人間の思考の尺度をはるかに超えた表現であふれておりますが、それがつまり法則を領解する法則の始まりで、法則の最後は「ただ頷くばかり」「南無阿弥陀仏」で完結します。
阿弥陀さまを私たちの思慮分別で「納得する」「信じる」ことは不可能だと思います。一度、頭を空っぽにして「法蔵菩薩(阿弥陀さま)の物語」を読まれてはいかがでしょうか。あるいは良き師に出会い、ご聴聞を重ねられることをお薦めいたします。
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