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094 「喪中と年賀欠礼状について」

問1 喪中と年賀欠礼状についての質問@
Q1 まずは「喪中」とはどんな意味がありますか。
Q2 では喪について浄土真宗の門徒としてどう考えたらよいでしょう
Q3 「忌」という言葉の意味はいかがですか。
Q4 祥月の祥は、めでたいという意味がありますが。
問2 喪中と年賀欠礼状についての質問A
Q1 浄土真宗では年賀欠礼状をどう考えたらいいですか。    例文
Q2 喪中に年賀状を出すことはいかがでしょうか。    例文
 
回答者: 西原 祐治

Q1:まずは喪中とはどんな意味がありますか。


A:以前、高円宮(憲仁・崇仁親王第3男子・ 平成14年11月21日)さまが亡くなられた時、両陛下は21日から5日間の喪に入られ、久子さまと承子(つぐこ)さま、典子(のりこ)さま、絢子(あやこ)さまの3人のお子さまは特別に90日間の喪に服されました。さらに皇太子ご一家、秋篠宮ご一家、紀宮さまの皇族方も5ー30日間、それぞれ喪に服されたと報道されました。先の皇太后陛下崩御(平成12年6月16日)の折りは、天皇陛下は,6月16日から150日の喪を服され,皇后陛下並びに皇族各殿下も同一の喪を服されています。死亡した人の地位や関係によって喪の期間が異なるようです。明治政府の『忌服令』には父母十三か月、妻九十日、嫡子九十日、養子三十日などと続柄によって分けては考えられていたようです。
 さて、人が死んだらなぜ喪に服したりするのでしょう。一般的に言って「死」は非日常的で、あって欲しくないものです。喪に服することを「儀礼的禁忌の状態」といって、世界中で行われています。死者に対しての愛着や罪責の念い,死に対する恐れ,死の穢(けがれ)を遠ざけることから、色々な習慣が生まれたようです。
 そして喪は社会的な制度として定着したとき、社会から区別する意味と喪中であることを自分に戒める意味で、日常的ではない衣服を着たりします。それが喪服です。
 現在の日本でも、人の死後、親族が家族の死を悼んで、喪中はできるだけ派手なレジャーや遊興を避け、結婚式の出席や神社の参拝、年始参りも控えるのが一般の人の慣例にもなっています。


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Q2:では喪について浄土真宗の門徒としてどう考えたらよいでしょう


A:この「喪」という言葉の意味ですが、辞書に「@死亡した人を追悼する礼A人の死後、その親族が一定期間、世を避けて家に籠もり、身を慎むことBわざわい。凶事」(広辞苑)とあります。
 日常的には「忌」は、時刻を定めて故人との関わりを持つ日を言い、「喪」は故人と関わりを持つ一定期間のことを言っているようです。喪の期間は前述のように故人との関係の深さによって違います。
浄土真宗では「死」は、阿弥陀仏と同質な豊かな世界に往き生まれることだから、死を穢れとしたり、死を畏れることをしません。だからといって、死別の悲しみまで否定してしまうことは行き過ぎでしょう。そこで浄土真宗では喪中や忌中をどう考えるのか問題となります。
私は、この喪中や忌中は、社会に定着して習俗・週間だから、浄土真宗的な意味づけをしたらいいと考えています。グリーフワークという言葉があります。死別の悲しみからどう自分自身を取り戻していくか。「悲嘆の作業」とも訳されます。私はこの悲嘆の中から自分を取り戻していくグリーフワークという言葉を「深い悲しみ、悲嘆の中から新しい秩序を見出す行為」と翻訳しています。死別の悲しみの中から、悲しみの事実を忘れたり悲しみを否定して、その悲しみから回復していくことではなく、悲しみの経験を通して、悲しみの持つ意味や、新しい秩序、信仰に開かれることによって、日常性を回復していくことです。
具体的には、その期間に、悲しみが悲しみだけで終わらない教えに出会っていく期間。阿弥陀仏の慈悲は、この私の悲しみを否定するものでく、この悲しみによって起こったことを味わう期間。死は自然なことであり、人生は一期一会であることを、故人の死から学ぶ期間。勤めをするお経の言葉を通しての浄土真宗の教えや行儀を身につける期間。故人が残してくれた仏縁をしっかりと受け止める期間。等々です。死別の悲しみや寂しさを通して、新しい自分と出会っていくための期間です。悲しみを通して成長していくことです。単にしきたりだけで終わらせないことが重要です。


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Q3:忌という言葉の意味はいかがですか。


A:一周忌とか三回忌という言葉を聞いたことがありますか。親族や知人が死んで一年目に行う法要を一周忌と言います。学校が設立して、1年目に行う行事を一周年記念○○と同じ事です。三回忌は、三回目の命日、本当の命日があって次の年の命日が二回目の命日(一周忌)、その1周忌の次の年、本当の命日を入れて三回目の命日のことです。
 近年「忌」は忌み嫌う意味だからと、三回忌を三回会(光英社刊 迦羅羅カレンダー他註1)や三回縁(伝道論 教団論へのアプローチ・著者:蔵田了然・探求社刊)と呼ぼうと運動している人もあります。一周忌でしたら一周会(縁)という具合です。
 この「忌」という言葉は、古くは「日本書記」にも、天武天皇が在位4年(675)に、五穀豊穣(じょう)を祈願する「大忌祭」(おおいみのまつり)をはじめたと伝えられているように、仏教が広まる前から、すでに定着していた言葉のようです。
 以前「本願寺新報」にこの「忌」について数種の辞典の解説を紹介して、忌むとは1.「タブー」として避ける意味と、2.亡くなった人の命日・その日に当たってつつしむ意味があるとして、2の意味をもっと積極的に打ち出すべきという意見を示したとあります。
私も、この「忌」という文字は、忌み嫌う意味だけではないように思います。親鸞聖人の年忌を「御正忌」と言います。浄土真宗の人だと、御正忌といっても、いっこうに忌み嫌うという語感を持ちません。それは文字の持つ意味も大切ですが、それ以上に、忌をどのような営みとして実行しているかが大切です。そして忌を仏事として行っていることが重要です。


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Q4:祥月の祥は、めでたいという意味がありますが。


A:故人の月の命日を「月忌」といい、誕生日のような1年に一度くる命日を「祥月」と言います。この祥月ですね。ご質問のように「祥月」の祥は、「さいわい・めでたい」という意味です。余談ですが、「羊」という文字は、美・義など使うように「めでたい」という意味があります。羊は肉から毛も皮も利用されるので最高の物という思いからそんな意味が生まれたようです。
 さて「死」がなんで「祥」なのでしょうか。これは中国の影響です。中国の『礼記』「間伝」(中国の儀式の古典)に「父母の喪には3日間は断食で、3日目死者を棺に納めて祭ったあとに初めて粥を食う。以後も粗飯に水ばかりで野菜も食べない。1年の小祥忌が終わって、初めて野菜・果物を食べる。そして3年忌の大祥に初めて、酒、肉が許される」とあります。喪の期間を、死後1年として、その喪が明けたところにの喜びがあるので「祥」という文字でその日を表しました。喪中がめでたいのではなく、喪が明けたので祝うという意味です。
ちなみに死後百日目に行う百ヵ日は、儒教の卒哭(そっこく)に準じていると言われます。卒哭とは、死者に対して喪服、通哭する期間のことです。一周忌と三回忌は、儒教のこの小祥、大祥に準じていると言われます。祥は喪との関連の中で使用されている言葉なのです。


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Q2-1:浄土真宗では年賀欠礼状をどう考えたらいいですか。


A:死を不幸なこととして限定しない。それが浄土真宗の考え方です。かといって悲しみまで否定するのは行き過ぎです。年賀欠礼状について結論から言えば、欠礼しても、出状しても浄土真宗の香りなする手紙やはがきであることが大切です。

 年賀の欠礼状(はがき)を出す時の注意点は、礼状は、相手が年賀状を認める前の12月上旬には届くように出すこと。それと浄土真宗に相応しくない「他界」とか「服喪中」などの用語を避け、「喪中だから新年の挨拶を失礼する」でなく、「○月に○が往生し、はじめて迎える正月は、○を偲びつつ家族で静かに迎えたいと思いますので、新年の挨拶は失礼させていただきます」との旨を入れるとよいと思います。
 年賀状を欠礼する場合の文例を挙げて置きます。



(文案一)
明年は母の逝去後はじめて迎える正月です。
母〇〇を偲びつつ家族で静かに迎えたいと思いますので、新年のご挨拶を失礼させていただきます。
なお、今年中賜りましたご厚情を厚くお礼申し上げるとともに 明年も変わらぬご交誼のほどお願い申し上げます。
(文例二)
新年のご挨拶を失礼させていただきます
九月に母〇〇が往生し、はじめて迎える正月は、母を偲びつつ家族で静かに迎えたいと思いますので、新年のご挨拶は失礼せていただきます。
なお、時節柄一層御自愛ご相続下さい。
(文案三)
長い間、病床に臥しておりした父が、去る○月 ○ 歳をもって、静かに浄土に往生しました。
生前中は皆様から、色々とご指導賜りましたこと、家族一同深く感謝しております。私にとりましてはいつになく寂しい年越しになりそうです。「人間ソウソウト衆務ヲ営ミ、年命ノ日夜ヲ去ル事ヲ覚エズ…」善導大師のお諭しが厳しく、また有り難く聞こえる昨今です。世俗の習慣により、新年のご挨拶を欠礼させて頂きます。
明年もご厚誼のほど、よろしくお願い申し上げます。
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Q2-2:喪中に年賀状を出すことはいかがでしょうか。


A:一般常識では、死に関ることは悲しみと、死を穢れとみなして忌むということなので喪中はがきを出しますが、浄土真宗では、悲しみを通して如来の大悲にふれ、死を穢れとしないので、年賀状を出しても差し支えありません。

 年賀状を出す場合は、寺院の方でしたら出すこと自体が浄土真宗の伝道の場と考え、言葉を選び形式的ならないように注意が必要です。注意点としては

*欠礼しないで、年賀状を出す理由を伝えるとよい
* 浄土真宗において死の持つ意味を伝える。
* 失礼がある場合への配慮をしておくとよい。
* 悲しみの中、「喜ぶ」の言葉を嫌う人もあるが「慶ぶ」は、仏との知遇を喜ぶという意味なので差し支えない。
* 「賀正」「迎春」「賀春」などは、相手に敬意を表す言葉ではないので、目上の方や、改まった場合は、「謹賀新年」「恭賀新年」を用いる。

などです。


 喪中であっても年賀状を出す場合の文例です。



(文案一)

謹んで年頭のご挨拶を申し上げます。
昨年○月○日○○が○歳をもって安養の浄土に往生させて頂きました。世俗通途の義に従ってご挨拶ご遠慮申し上げるべきかとも存じましたが、如来の大悲を頂く者にとって、死は決して忌むべきことではなく、単なる通過点に過ぎないとお聞かせ頂いております。もしご無礼になりましたら何卒ご容赦下さい。
「人の世に生をうくること難く、やがて死すべき者の、いま生命あること難し」(法句経)今年一年たどたどしいながら、お念仏申し上げつつ、倶会一処の歩みを続けて参りたいと存じます。今年もよろしくご教導下さい。
(文案二)

 謹賀新年    元旦
 念仏に薫る新年をお迎えのこと、お慶び申し上げます。
 昨年は、この年なりの悩みや出会いが多くあり、今年大寒の日、不惑の年を迎える私ですが、迷い多く、あらためて力のなさを感じた年でした。
 
 また昨年、旧暦の聖人ご命日の日に、父の往生を見とどけました。父はここ数年、食道がんや脳梗塞等、病床にありましたが、私としては思い通りにならない現実から多くのことを学びました。死別は潤涙のことですが、忌むべき事でないと考え、年頭のご挨拶を申し上げます。ご無礼がありましたら、ご容赦下さい。今年もよろしくお願い申し上げます。
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回答者: 西原 祐治


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