仏教ちょっと教えて 




095 「『祈る』を使ってはいけないのか」

Q: 浄土真宗では、『祈る』ということばを使ってはいけないと聞きましたがどうしてですか?


A:『祈る』とは、神に祈る、仏に祈る、平和を祈る、祈りの祭典、幸せを祈る、冥福を祈る、はたまた乾杯には「皆様のご健勝をお祈りして」などと使われるようです。この『祈る』には、一般的には誠心誠意、全身全霊を傾けてという気持ちが込められているようです。ですから、冠婚葬祭や様々なセレモニーなど改まった場にはよく使われますし、真心を表現したい場合に使われるようです。そのような意味では、大変便利な言葉だともいえます。

 この『祈る』という行為は、本来宗教性の非常に高い行為です。この意味は、「人間と神の内面的交通、生ける人格的接触・対話であって、あらゆる宗教現象の中心」であり、それは「ギブ・アンド・テイクの関係である」(『宗教学辞典』東京大学出版会)とされます。

 仏教を開かれたお釈迦様は、今私の上に起こっている結果は、「縁起の理法(道理)」に基づくものであるから、祈るという行為はあまり重きを置かなかったようです。ところが、日本には神道の流れがありますし、時代を経ていく中で、『祈祷』を教えの中心にすえる仏教宗派が生まれて来ます。このことが、『祈る』という行為が一般化していく背景にあるといえましょう。

 『祈祷』とは、「神仏に心願をこめて祈り、霊験・利益・加護・救済などを願う宗教的行為」(同上)とされます。ようするに、私が神や仏にお願いをして、世の中を変えて頂こうということでしょうか。物事の原因は、私の外にあるという立場です。

 浄土真宗を開かれた親鸞聖人は、お釈迦様の教えの本質を見抜かれ、物事の原因を私自身の中にある煩悩に見ていかれました。自らを中心に物事をとらえて、その願いの実現の為に神仏に『祈る』その行為そのものの根底にあるもの(煩悩)、この煩悩を徹底的に見つめられたのです。ですから、現世祈祷やうらない、まじないを厳しく戒められました。

浄土真宗では、この言葉を使ってはいけないとお聞きのようですが、正確に言えば、「祈る必要がない」と言った方がよいかと思います。それは祈ろうとしている私の根本問題は「生と死の問題」でしょう。この問題の答えを見いだす道が念仏の教えであり、あらゆることに迷う必要のない世界が開けてくるのです。

 だからといって、思うとおりに生きられるわけではありません。次から次へと問題は私の上に迫ってくるでしょう。それは、どこまで行っても煩悩を抱えた生身の人間だからです。この悩みの根底にある煩悩を超えることは、私自身ではどうしてもできません。ですから、私の方はこの煩悩を抱えたまま生きていく他ありません。この私の姿そのものが、阿弥陀様のお救いの目当てであったと、気づかせていただくのです。「南無阿弥陀仏」とお念仏する日常は気づきの毎日であり、それに伴う感謝の日常であるといってもよいでしょう。


回答者: 艸香 雄道 


   POSTEIOSホームページ目次へ