A: 最近の不安定な世相を反映してか「写経」が静かなブームだと言われています。しかし写経といえば般若心経の写経が一般的で、伝統的に浄土真宗で写経をするということはあまり聞きません。その理由を考えてみるために、まず写経の歴史的な背景から伺ってみましょう。
写経はインドにおいてすでに行われていたようです。2〜3世紀に成立したといわれる「法華経」の第四巻
「法師品第十」 において五種法師(受持、読、誦、解説、書写)の一つとして説かれていることから、この時代には写経(書写)が修行の一つとして確立していたものと考えられます。しかしインドからは仏教経典の写経本は全く発見されておらず、また、経典の書写に関する記述もないために、当時のインドでの写経の実態は解っていません。
中国では、南北朝や隋、唐の時代に、漢訳仏典の総集である数千巻の経典(一切経、大蔵経)を写して寺に納める他に、宮廷や貴族の邸宅にそれらを備えることが行われるようになり、写経の専門家や写経事業運営の官制も発達しました。特に隋、唐の時代は写経の全盛期であり、白鳳、奈良時代の日本にもそのまま影響したと思われます。
わが国での写経については、日本書紀に「書生を聚めて、始めて一切経を川原寺に写す。」と記されているのが一番古い記録です。聖武天皇の時代になると、写経は国家的な事業として図書寮という役所まで作られ、国家安泰や五穀豊穣などを祈って、数多くの経典が有力寺院や図書寮の写経司によって書写されました。その後は、美しい装飾で知られる「平家納経」のように、貴族の間でも祈願の手段として写経が行われるようになり、鎌倉時代、室町時代になると、一般庶民の間にも病気平癒、先祖供養などの祈りや願いを目的として、写経が行われるようになりました。
このように、祈願を目的として写経が行われる背景には、法華経の法師品第十に「是の法華経を受持し、若しは讀み、若しは誦し、若しは解説し、若しは書写せん。是の人は當に八百の眼の功徳・千二百の耳の功徳・八百の鼻の功徳・千二百の舌の功徳・八百の身の功徳・千二百の意の功徳を得べし。是の功徳を以て六根を荘厳して皆清浄ならしめん。」と説かれている事が拠り所になっているようです。
このような写経の歴史、意義を見ますと、浄土真宗の祈願請求をしないという宗風にはそぐわないかもしれません。しかし祈りや願いなどを目的とした写経でなければ、写経をしてはいけないとこだわる事もないと思います。浄土真宗のお聖教である、阿弥陀経、重誓偈、讃仏偈、正信偈などを写経することは、如来の慈悲をより深く学べることにもなるでしょう。
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