仏教ちょっと教えて 




108 「ゴショウの一大事」、
「一大事のゴショウ」って

Q: 「ゴショウの一大事」「一大事のゴショウ」ってどういう意味ですか?


A:
 もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人(親鸞)御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。(「領解文」)

ゴショウとは「後生」ということです。浄土真宗の寺院ではこの領解文があげられます。他にも「白骨の御文章」でも「後生の一大事」として出てきます。そもそも「後生」とは「後生だから」「後生大事に」など慣用句として使われ、「後生」もかなり意味が多様に変化して使われています。国語辞典をひらいてみると、

「後生」・・@死後に生まれ変わっていくとされている所。
      A死後の安楽
      Bおりいってたのむときにつかう〔−だから〕
      −ぎらい・・・仏の教えをけいべつすること
      −大事に・・・@死後の安楽をねがって仏教の信仰にはげむさま
             A物をだいじにもちつづけるさま

などと出ています。また落語の好きな方は「後生鰻」(※1)というお話もご存知かと思います。
 落語の「後生鰻」という話は上の意味だと、「後生大事に」の「死後の安楽をねがって仏教の信仰にはげむさま」にあたるかと思います。話の中では、「いい後生をした」という言葉で使われ、「(来世での幸せを得るための)現世での功徳」ということがベースになっています。この話と共通して「後生だから・・・」といった場合は「私の頼みを聞いてくれると現世での功徳になってあなたの来世の幸せの種にもなりますよ」という意味からの変化と想像されます。

 浄土真宗のおしえは「阿弥陀如来のご本願は衆生の浄土往生であり、そのご本願を聞かせていただく」というものです。ですから「後生鰻」の話のように、私の善根功徳、つまり善行という手柄によって浄土往生が決まるというものではありません。しかしながら、こういった話をもとに真実というものは受けとることができるように思えます。この話の中にあるように「生きものを殺生から救う」ということは、確かに善行のようではありますが、同時にそれは限定的なものであることに気づくはずです。そしてともすればわれわれの生が無数の命の犠牲の上になりたっている事実を覆い隠してしまうものになるかもしれません。救わないよりも救うほうがいいだろうという意味ではたしかにそうかもしれません。しかし善根とまでははたしていいきれるものでしょうか。見方をかえれば「いいことをした」という自己満足の中に迷い、深い慙愧の心を見失わせているともいえます。
 さて話がだいぶそれてしまいましたが、「後生」についてですが、多くの人にとってこの「後生」とは現実的でなく、またあまり自分が死ぬことは考えたくないものでありますので、どこかしら真剣にではなく話し半分で受けとっておけばいいだろうという感覚はいつの時代でもあるのかと思います。そんな感覚にあって「後生の一大事」とたびたび聞かされると「後生嫌い」という言葉も生まれてくるのかと思います。
 しかし「後生」とは「死んだ後の世界で安楽を得る」という単純な話ではないのがミソです。「一大事の後生」を曽我量深和上は次のように解説されています。

後生は真実の生、永遠に死のない生、死のある生のもう一つ根源の所に、死のない生、そういう一つの根源があって、われわれの意識の表面には生死だが、意識の深い所に無生の生、生死のなき生−−そういう生をば後生という。

私どもは、生あるものには死がある、死はまぬがれることが出来ないという深い恐れと悲しみを逆縁として、本来無生、永遠に死なない・・そういう生をば後生という。死を縁として現れるから後生という。

しかし後生は死んでから始まるのではない。現在すでに始まっている。死んでしまってから後生というのではない。後生は現今にもあるが、われわれは知らぬでしょう。だから死という一つの逆縁、そういう所から始めて真実の生を知らせて頂く。

本当の後生というのは仏の生でしょう。浄土の生でしょう。後生助けたまえ、というと、何か地獄の生みたいなものを呼び起こすのは人間の迷いでしょう。われらが今度の一大事の後生・・・は地獄の生ではない、阿弥陀の本願の無生の生を、後生と仰せられたに違いない。
                  (曽我量深著「親鸞との対話」より)

 私たちは人生においてどちらの方向に目をむけているのでしょうか。一つには死に向かって一歩一歩進んでいるという考え方もできます。しかし、一方で往生すなわち、仏の生を得られる日々を一つ一つ歩んでいっているということを知らせていただくこともできるのです。
 つまりそれは私たちの一生を、死という点でそれ以前を生、それ以後を生でないと分けてとらえる人生を歩むのではなく、いますでに「真実の生」つまり仏の願いによって仏と成る身であるということを気づかせてただくということ(それは「新たな生の始まり」といってもいいかもしれない)であり、そのことを「一大事」として心にかけよとお読みくださったものと頂戴することであります。

※1
「後生鰻」
隠居の毎日の楽しみは神社仏閣をお詣りして歩くこと。その道すがら生き物が殺されようとしていると、どんなことをしても助けていた。
 浅草の観音さまの帰りがけ、鰻屋の前を通ると、親方が鰻をまな板の上へ乗せて包丁を入れようとしているところ。慌ててこれを言い値で買って「これ、鰻よ。これから先は決して人につかまるところで泳ぐんじゃないよ。わかったかな。南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ」と言って前の川へボチャーンと放り込み、「ああ、いい後生をした」と晴々とした気持ちで帰った。
 翌日もお参りの帰り、鰻屋の前を通り、同じように鰻を買って放してやる。次の日も同じ。何日も続いた。
 その度に鰻屋は隠居の足元を見て値段を吊り上げるから、隠居も「金が掛かりすぎるわ」と悩んで、ここしばらく、鰻屋の前を通らずに帰るようにした。
 そんなある日、鰻が切れて鰻屋は商売を休んでいるところに、隠居がやってきた。鰻屋は一儲けしようとするが、肝心の鰻がない。生き物ならなんでもいいだろうと、発作的に赤ん坊をまな板の上に乗せて、頭の上で出刃包丁を振り回した。これを見た隠居は店へ飛び込んできた。金を払って赤ん坊を引き取り「これ、赤ん坊や。こういう家に再び生まれてくるんじゃないぞ、わかったな。南無阿弥陀仏、なむあみだぶつ」てんで、前の川へドボーン!

回答者: 竹柴 俊徳  


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