A: この質問コーナーですでにたたく回数の問に田沢さんがお答えになっている通り、リンは、お経を読む時に使用する道具です。 経本を見ますとリンを打つ場所、そして回数が指定されています。お参りをする時に、必ずたたかなければならないというものではありません。 笑い話のようなお話ですが、以前、「リンをたたかないと、仏さまにお参りをしていることに気づいてもらえないのではないか」との質問を受けたことがあります。
つい先日、本堂の向拝で、小さな子を相手に若い父親がこんなことを言っていたそうです。
「しっかり、手を合わせて拝めよ。手を合わせるときには、ちゃんと音が出るようにな。」
「そうそう。でももっと大きな音がでないかな。よし、パパがちょっとやってみよう。−−−−大きな音がでるだろう」
「おおきな音がでないと、お願いしても仏さまが気づいてくれないぞ」
と。
「おいおい、ちょっと待ってくださいよ。ここは神社じゃあないんですよ」と言いたいところですが、私は残念ながらその場にはいませんでした。
考えてみますと、この出来事は、日本人の宗教観を象徴していると思えます。
まず、「神社や、お寺は、願いごとをするところ」と考えていることであります。それぞれの宗教の持つ教義とか、有り方などは、まったく眼中にありません。
つぎに、「お願いするからには、こちらのことを先ず分かってもらわなければ」という身勝手さであります。 兵庫県のある神社は、本殿の裏の厚い板壁がへこんでしまっているのだそうです。 それは、お参りされる人々が、神さまが寝てしまっていて気づかないといけないから、お参りするたびに、裏へまわって板壁をたたく習慣があるからなのだそうであります。
「そんなに信用できないなら、最初からお参りしなければいいのに」などと思ってしまいます。 それに、「寝てしまっている」とか「気づいてくれない」などということは、あくまでも人間の尺度であり、仏さまや神さまの尺度で考える事柄ではないと思うのですが、いかがなものでしょうか。
お参りすると言えば、まず祈願請求のお参りがほとんどですから、願いをかなえてもらうためのよりよい方法を、これまた勝手に考え出して行っていると言えるのではないでしょうか。
しかし、浄土真宗のみおしえを聞いていきますと、私がお願いするよりも前に、仏さまの方から、すでに、願われていることに気づかされます。
「気づいてくれない」どころではありません。気づいていないのは、凡夫の私たちの方なのであります。 仏さまの方からの働き掛けに気づきもせず、あっちへうろうろこっちへうろうろ迷っている私に、「しっかりしろよ」励ましてくださっているのです。
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