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法話を聞きながら、「そうそう」とうなづくことがよくあります。そして、「この話は○○さんにこそ聞いてもらいたい」と思うことも……。
『仏説無量寿経』の下巻を読んでいきますと、人間が迷いの中でどのような生き方をしているかが事細かに書かれています。例をあげればこのようなことが書かれています。
急がなくてもいいことを、争って成そうとします。おのれの欲望のために、走り使われて心が休まるときがありません。
例えば、田んぼがあれば田んぼがあるがために悩みが増え、家があればまた悩むことが増えてしまいます。 ものを持つことは、憂いを抱えるようなものであります。しかし、だからといってなければよいというものでもありません。 田んぼがなければ、憂えて田んぼがあることを欲します。また、家がなければ家があることを欲して憂えます。
そして、人間のありさまが次々にあげられていきます。読み進んでいくうちに、今世の中で起きている事実を、そのまま書かれているような気がしてきます。 経文の一部を引用しながら、世の中を過ちを指摘する文章を書くことは、それこそ簡単にできるほどであります。
例えば、子どもたちの非行化を憂えながら、 「『仏説無量寿経』というお経には、『世間の人々は、あちこちうろついているばかりで、あえて、善い行いやしなければならないことをせずにいて、結局は本人ばかりか周りのものまで苦労をしなければならない。父や母がそれを教え戒めたとしても、目をつり上げて怒り答える始末である。和やかに言うことを聞くどころか、反抗するばかりである』と書かれています。まったくその通りではありませんか」
と、ちょっと学のあるところを見せてお話しすることができます。 いづれにしましても、このように次から次へと、人間の浅ましさが語られていきます。ああこれもこういう例がある。あれもこのような例がある。などと考えながら読んでいってしまいます。
ところが、ここに書かれていることは、ひとごとではないのであります。 このお経のご文は、お釈迦さまが私のために説かれたことばがかかれているのです。私も、いつの間にか評論家気取りになって自分を棚に上げてしまっていました。
蓮如上人は、厳しいおことばを述べられています。
「人の悪しきことはよくよく見ゆるなり、我が身の悪しきことは覚えざるものなり」
と。また、すぐ付け上がる私に対して、蓮如上人は、「人間はあがりあがりておちばをしらぬなり」とお示しくださっています。
布教使さんはよく、「我がこととして聞くように」と言われます。仏法を聞く姿勢の鉄則です。しかし、それが意外と難しいことも事実であります。
仏法を本当に聞いてもらいたい人、それは私自身です。だからこそ、私たちは、繰り返しお聴聞させていただくのです。
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