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ご質問に関して私なりの回答を申せば、ご住職さんがおっしゃった「笑いなさい」とは、おそらく笑いがもたらす効能を考えてのことだと思います。 怒ること自体はいいとも悪いともいえません。いかりを我慢をすることでうちにストレスを溜め込むことが一番の問題です。 しかしいつまでも怒っているということもいいことではありません。愚痴を聞いてもらう、ものに当たるなどもそれを回避する方法でしょうが、スポーツなどで発散する方法や、あるいは今回のように笑うという方法も周りに迷惑かけない方法でしょうね。
笑いに関する効能はすでに免疫学的にも臨床の結果が出ているようです。 考えて見ますと、「笑う」ということができるのは人間の特権のような気がします。せっかく「笑う」ことができる人間に生まれてきたのだからそれを活用しましょう。 いつまでも怒っていると損するだけですよ・・・そんな意味で「笑いなさい」とおっしゃっていたのだと思うのですが。
しかし、「笑え」といわれて笑われないとはそのとおりだとも思います。そもそも笑うにはそれなりの条件があるからこそ笑えるのだと思います。
それに関連して、こんな話があります。「ある小さい子が道端でつまずいてころび、泣いてしまいました。 僕は道端でつまずいてころび、(自分の情けなさに)ひとり笑ってしまいました」・・・この話はとても重要な意味が込められています。子どもはまだ自己を見つめる力が養われていないので、転ぶと痛くて泣いてしまうだけです。 ところが、ある程度の年齢で、自分を客観視できるようになると、自分のドジを笑うことができるのです。 これができることが人生を豊かにするように思います。小さい子が転んでニヤニヤしていたらちょっと怖いですよね。
ともすれば自己の感情に振り回されっぱなしの私たちは、「自分を見失い」がちな日々を送っているともいえます。 浄土真宗ではよく「腹が立ったら南無阿弥陀仏」ということを耳にいたします(※本当の意味としては、「腹が立っても南無阿弥陀仏〈=どんなときでも「南無阿弥陀仏」申しましょう〉」という捉え方を強調するものなのですが)。
腹が立つ状況とは、得てして自己を正当化し、けんかの相手には情け容赦なく悪者のレッテルをつけます。 そんな時にお念仏を申させていただき、自らのはからい、分別を超えた仏の慈悲のひかりにわが身を置いてみることが、あるいは腹立たしさを抑えられる何かがあるのかもしれません。
わが身の思い通りにならないことを素直に受け入れること、そこから、思い通りにしようと必死になってしがみついていた私の滑稽なる姿が見えてくれば、笑わずにはおれないのかもしれません。 考えてみると仏教にはそういったユーモラスな人生を体現したものがたくさんあります。
仙高ニいう禅宗のお坊さんの画いた絵や、木喰上人の木像仏などにもユーモアが見られます。 一休さんや良寛さん、妙好人と呼ばれる人、また念仏者小林一茶などもそうですが、世間の価値観を超越した視点をもつことに人生を豊かにするヒントがあるように思います。
大いなるものに照らされると私が見えてきます。逆に言えば私が見えているということは、何かしら私の小ささ、はかなさを気づかせてくれる何かに出会っているともいえます。そんな風にとらえていただければいいのではないでしょうか?
ご質問に即してネットで調べて見ますと、「腹が立ったら、大きな木に抱きつく」などと面白いものもありました。参考までに。
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