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本願寺への参拝した日は、16日か1月の報恩講期間中か、本願寺歴代の宗主のご祥月命日の日であったのでしょう。 通常、阿弥陀堂(現在は総御堂)での朝のお勤めは『讃仏偈』が勤まります。しかし先に記しました特別に縁のある方のご命日は、阿弥陀経を漢音読みでお勤めします。 この阿弥陀経の読み方を通常「漢音小経」といっています。小経とは『仏説阿弥陀経』が正依のお経である『仏説無量寿経』とくらべて短いので小経と言っています。
呉音、漢音、唐音(宋音ともいう)について
まずは漢音について説明します。たとえば「和尚」と言う漢字でも、宗派によって呼称が違います。
律宗、法相宗、真言宗などでは、鑑真和尚(ガンジンワジョウ)のごとく、「わじょう」と呼びます。天台宗では、慈円和尚(ジエンカショウ)では「かしょう」です。禅宗、浄土宗では、布袋和尚(ホテイオショウ)のように「おしょう」です。
これは、呉音、漢音、唐音(宋音ともいう)の読み方の相違です。
呉音は南北朝時代の呉地方の音と言われ、漢音は唐代の西北地方の音です。唐音は宋時代の標準語でした。 もう一例を申しますと「頭」は、「頭(ズ)脳」は呉音、「頭(トウ)髪」は漢音、「饅頭(ジュウ)」は宋音読みです。 心空(14世紀の僧)の「法華経音義」に「いま経は、ことごとく呉音を本とする」とあるようにお経は呉音で読むのが習わしとして伝承されてきました。 しかし呉音読みは、邦人が初めて呉国の比丘について習読し呉音を伝授されたという説や、聖徳大子が呉音をもって読経の法と定めたという説等があり確定はできません。
呉音の阿弥陀経について
「漢音小経」について解説します。 親鸞聖人の先生でありました源空聖人(法然房源空)は、晩年上人は晩年、経典を読誦することなく毎日、一向称名のほかなかったといわれますが、一向称名になるまでは、毎朝、阿弥陀経一回は呉音、一回は漢音、一回は訓読で都合三回読まれていたようです(勅修御伝)。
また当時、親鸞聖人も師の下で、『仏説阿弥陀経』を呉音で読まれていたようです。それは聖人ご自身が認められた『国宝阿弥陀経集注』が現存し、その経典のルビの濁音の指定があることから創造できます。
皆さんが読まれる聖典に掲載されている阿弥陀経のルビは、江戸中期の慶証寺(京都)玄督師が、伝承された唱読音の変転を痛み、なるべく古音を残そうと伝承に従って濁点符をしるしたものを私たちは読んでおります。
同じ呉音でも聖人のころ(鎌倉時代)とでは濁音の読み方が多少違っています。生死(しょうじ)・観世音(かんぜおん)・三千(さんぜん)など、現代は濁って読んでいますが、聖人はにごらずに清音で読んだようです。こうした相違が三部経全体で百近くあります。
漢音の阿弥陀経について
さて、本題の漢音の阿弥陀経ですが、本願寺では、通常勤行では呉音を用い、報恩講や本願寺歴代の祥月命日などに『阿弥陀経』を読誦する場合、漢音を用いています。
『阿弥陀経』の漢音読みは、二流あり、一つは魚山(天台宗)から伝えられた「例時読み」、もう1つが本願寺第五代宗主でありました綽如上人の時代から連綿と伝承されいる「百済読み」です。 「百済読み」は同じ漢音で発音する「例時読み」とは違って、変則的な部分が多く、浄土真宗だけに伝承している。非常に特殊な読誦作法です。
本願寺派の「漢音小経」は、嵯峨流で読誦することを、先の玄智師が著された『考信録』(こうしんろく)に
御本堂の阿弥陀経は嵯峨本とて、阿弥陀経のすり本候、漢音を付たる本にて候。綽如上人あそばされたる阿弥陀経を披見申候つるにも嵯峨本の如く御付候て、如此さが本の如く毎朝すべしと、奥書にあそばしおかれ候き。此本は漢音ばかりに非ず、呉音も少しまじり、唐音もあり、くだらよみとて聖徳太子の百済国より取寄られしよしにて候間、くだらよみと申して候。云々
と伝わっています。
「嵯峨本」とは「くだらよみ」ともいい、室町時代に京都嵯峨の臨川寺(リンセッ)で出版されていたものです。
一例を挙げておくならば、「例時読み」は経文一字一字をクセ無く読んで行くのに対し、「百済読み」の場合、場所によっては一文字を延ばして読んだり、或いは読まずに飛ばしたりする箇所がありあります。 この「百済読み」は東西本願寺をはじめ、真宗佛光寺派などにも伝えられています。
ちなみに大谷派報恩講の毎朝、漢音阿弥陀経と読んでいます。本願寺派は報恩講中の最後の16日のみ晨朝〔小経(漢音)・正信偈(真譜)〕他は晨朝〔小経(呉音)・往生礼讃偈〕)にだけ読んでいます。天台宗の例時作法の阿弥陀経でも漢音で読んでいるようです。
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