仏教ちょっと教えて 




127 お通夜の席での声かけ

Q:友人のお身内が亡くなられたときのお通夜の席で、どのような声をかけてあげればよかったか悩んでしまいます。こういった時には何かいい接し方などありますでしょうか。


A:
   私達は人生を生きていく上で、多くのモノを喪失します。その喪失する対象とは、「人」であり「物」であったりします。またその人自身に関することがらとして、夢や思い描いていた未来を失うこともあるでしょう。あるいはまた肉体的、機能的なことも失う対象としては考えられます。そのように考えると、人間の一生は喪失とともにあるともいえます。そして、我々はそうした喪失を経験したとき、その現実に対して困惑し、また悲嘆するのです。当然のことながら、その対象に対する思いが強ければ強いだけ、その悲嘆も大きくなることが想像でき、時にはその喪失を経験したことにより、日常生活すらままならない状況に陥ることも多々あります。しかし、このような対象喪失を体験したものは、普通はその悲嘆が持続され続けることはないといえます。我々は悲嘆からやがて回復し、あるいは回復しつつあると感じるのであります。
   小此木啓吾氏の『対象喪失』によれば対象を失った場合にわれわれは大別して2つの心的な反応方向を辿るといいます。1つは対象を失ったことが、1つの心的なストレスとなっておこる急性の情緒危機であり、もう1つは、対象を失ったことに対する持続的な悲哀の心理過程であります。情緒的危機は急性に起こり、比較的すみやかに回復していくが、その後一定の適応状態を回復するにつれて悲哀の心理が始まるといいます。小此木氏は「対象を失うことの悲しみをどう悲しむかは、人間にとって永遠の課題である」とし、対象喪失の研究の目的と、その意義を提示している。
   この「どう悲しむか」ということがその後の悲しみからの回復へのプロセスであるといえます。そこには正常な回復作業がなされる場合と、病的な悲嘆による回復が妨げられる場合があるといえます。
   私たち僧侶も通夜、葬儀の席で様々な場面を経験します。浄土真宗の立場からは、お浄土という世界を共有する大切な場でもあります。悲しみの中で近しい方との死別をわれわれの命のありようを見つめる場としていただくことが大切であると説きます。そして積極的な来世観(浄土真宗でいえば、「還相回向」〔=浄土に生まれ仏となるも、娑婆の世界に還りきて迷えるものを救うはたらき〕)を持っているということは決して悲しみの回復を妨げることにはなりません。しかしながら、ご縁の深浅もまちまちであるとすれば、一言でその来世観を共有しながらの場とはならない場合が多いともいえます。
   一般的な話を申せば、悲しみの中にも「長い間ご苦労さま」といった言葉に包まれての通夜、葬儀もあれば、あまりの突然の別れや、あるいは若年齢の死など、深い悲しみに言葉も発することがほとんどないというものもあるでしょう。亡くなられた方との親密度はもちろんのこと、亡くなられた時の年齢。亡くなられ方。予期や看取りの有無など、私たちは一口に死別といってもその場面は多岐にわたるということを念頭に考えなければなりません。
   例えば、年齢ということも一般的に考えれば、平均寿命というものが大きく影響すると思います。その亡くなられた年齢が平均寿命よりも上であれば、遺族の悲しみも小さく作用するといえます。しかし自死、殺人、事故などという亡くなり方や、死別の準備がないままの別れや、看取りがほとんどない状態での別れは、悲しみからの回復のプロセスを構築しづらいものであるといえます。


   さて、私は大学の卒論において「喪失体験 ―配偶者を失った者の回復へのプロセスの一考察― 」というタイトルの研究を行うなかで、配偶者の死別後、満2年(三回忌)を迎えた方のインタビューという形で14のケーススタディを行いました。そのなかで悲嘆の持続が比較的少ないケースと悲嘆の持続が続いているケースの違いを峻別し、インタビューの中からその差異が生じるキーワードを抽出したところ、それは「感謝の言葉」の有無であるという結論を持ちました。そしてそれは援助につながる観点として考えることができるものです。
   この感謝の言葉とは、亡くなられた配偶者に対するもの。あるいは悲しみに打ちひしがれていたときに接してくださった方へのものなどがありました。死別を経験した者は特にその初期の段階において周囲からの適切な援助が必要とされているという観点では後者的なサポートがわれわれが出来ることであります。反対に死別に際して心ない言葉(言った本人は立ち直りを期待しての言葉のつもりでも)によって回復を遅らせるケースも見られたことを考えると、この接し方が実は回復の大きなサポートになるといえるのです。
   つまりご質問にあるように、どのような言葉をかけてあげればいいか、どのように接してあげればよかったかということが、その振る舞い次第で大きなサポートになり、また反対にサポートを妨げることになるということです。
   ではどういう振る舞い、言葉がサポートにつながるかといえば、それはあまり定型句のように型にはめこんでしまうことでもないような気がします。また変にサポートを妨げることを恐れて接触をしないことも正しい振る舞いではないと思います。共感も難しいところです。同じような気持ちでいるということを言葉で語ることはかえって反感をもたれるかもしれません。その悲しみの深さとイコールの悲しみを目の前の人が持っているかを判断するのは当事者ですから。余計な判断を結果的にさせてしまうように思います。むしろそのような感情があっても振る舞いでその気持ちは伝わると考えたほうがいいと思います。
   そういった場合にまず「傾聴」と「ボディータッチ」は非常に有効であるということを念頭に置いておくことがいいかと思います。そして「なにかできることはないか」「できるだけのことはしたい」という意思表示や、「いつでも声をかけてきてほしい」といった言葉は、時として大きな支えとなるように思います。これらのことは何も死別に限ったことでないことはほかのコミュニケーションスキルの中にも語られることでありますので、広い意味での悲しみを抱えた人とわれわれはどう接するかに共通する視点でありますし、もう少し広げて申せば、人との接触がわれわれの悲しみを癒すと考えることが出来るのです。
   そして回復のサポートつまり、「あの一言が有り難かった」「あのときの私の悲しみを聞いてくれて感謝してます」ということにつながるように思います。
   そして実は、死別とは回復という観点では困難を乗り越えるという心的負荷のイメージだけかたられますが、実は死別の回復の中の過程で、こうした「感謝の言葉」をもつ経験をされた方は、そのことが実は死別を経験する前の段階も含めて、新しい人間的な成長を促し人格的な高みへと導くものであるということがいえます。つまりわれわれは死別を通して悲しみ、そしてそれを我が人生の一部として受け止め、私自身の人生をより深く味わう新たな歩みをいただけると考えるべきなのです。ですから友人など他者がそういった立場にあるときはその高みへのスムーズな道すじをわれわれは出来る範囲でサポートするという心積もりが大切なように思います。
回答者: 竹柴 俊徳    



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