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001   もののけ姫


[真実の言葉]
 ほしいままに所為を聴してその罪の極まるを待つ。その寿いまだ尽きざるに、すなはちたちまちにこれを奪ふ。悪道に下り入りて累世に勤苦す。そのなかに展転して数千億劫も出づる期あることなし。
(無量寿経・巻下)


 この夏二本のアニメ映画が大ヒットしました。そのポスターを並べてみると、映画タイトルの脇に付されているキャッチコピーがまるでワンセットのように呼応してるのが興味深く思えます。「だから、みんな、死んでしまえばいいのに・・・」と「生きろ。」。前者は社会現象とまで言われた『ジ・エンド・オブ・エヴァンゲリオン』、後者は巨匠、宮崎駿の新作『もののけ姫』です。

「共生」という宿題


 生きろ。
 大ヒットとなったこの二つのアニメには、正反対のコピーに反して、いくつかの共通点があるようです。 まず第一に、物語や登場人物の背景の説明がされないこと。それにより、観客は作品の裏にある情報や、作者の意図を読み解こうとする欲求にかられることとなりました。そのため作品の解説本、評論本が大量に出版され、いまだに本屋の一コーナーを占領しています。
 いや、説明不足を超えて、物語としてはエンドマークと共に完結してはいても観客自身に物語を引き受けて何事かを語りたいと思わせる力、物語の続きを観客に宿題のように引きずらせてしまう力をこの二作品は持っているのです。
 その力は作品のテーマによるところが大きいのは言うまでもありません。私が思うに二作品には、97年の夏という今を踏まえた、共通の問題意識と強い意思があります。それは乱暴に言ってしまえば「他者との断絶を前提として生きる」ということ、そして「用意された答などない」ということのように思えるのです。
 用意された答など、無い。
 『もののけ姫』は、たたり神が青年アシタカの里を襲うところから始まります。たたり神とは、人間への憎悪により、全身から黒い蛇のような触毛を伸ばした姿に変身した巨大なイノシシです。アシタカは、たたり神を倒しますが、腕に死の呪いをかけられてしまいます。アシタカは呪いを解く方法を探すうちに、オオカミに育てられた少女サンと出会います。サンと動物たちや森の神々は、森を荒らすタタラ場(製鉄所)の人間たちを憎んでいました。どこまでも戦おうとするサンを、アシタカは押しとどめようとします。しかし、森の神をつけ狙う謎の集団や、タタラ場を横取りしようとする武士が入り乱れ、人間対荒ぶる神々の戦いはエスカレートしていくのでした。

 善/悪でははかれない
 今、「共生」ということが盛んに言われます。自然環境を改変し、収奪してきたことのツケが天候異変やゴミ問題を引き起こした。これからは自然に優しい、自然と共に生きるライフスタイルが求められている・・・・『となりのトトロ』や『風の谷のナウシカ』など宮崎駿の一連の作品は、「共生」の思想の代表として受け止められてきたのは確かでしょう。
 それに対し当の宮崎氏の立場は異なっているようです。『もののけ姫』では「共生」自体は志向しながらも、一般に「共生」と言われるときの、一種の牧歌的な楽観は厳に排されているのです。ここで宮崎氏は、人間と自然とが理解しあうことはありえないのではないか、という諦観にたち、人間と自然(あるいは他者)との間の断絶を描いているように思えてなりません。ただしここでの断絶とは没交渉ではなく、逆に安易に相手を理解したつもりになることを戒めることが他者とより深く関係できるはずだという希望に繋がるものです。

 「共生」の前提
 従来、日本人が拝んできた「神」は、多くが、拝む人の欲望の投影でしかありませんでした。自分の都合に合わせて欲望や欲求に応えてくれる神は、自分の都合にあわせて死んでもくれる神でもあったのです。そうして、人間はお祓いをしながら自分の都合のままに森を切り拓いてきたのでした。神々と「共生」したつもりで。 宮崎氏は人間の都合や理解と断絶した神を登場させることによって、ある種の畏れ(それは尊敬でもありますし、想像力と言ってもいい)をもって慎重に対することが、他者と深く関係する[共生する]上での作法であることを思い出させようとしているのでしょう。 それは、近年多発している無差別を対象とした無軌道な犯罪が、「他者」への畏れを無くした土壌から生れるという危機感をも孕んでいるような気もするのです(が、これは私の深読みでしょうね)。 自分が思いも及ばない深みを持ったいのちを他者が有していること。そして、それに気づかず、常にそのいのちを脅かしかねない自分であること。この二つを意識しながら額を上げる。『もののけ姫』の「生きろ。」というコピーは、そんな覚悟の在処を問うています。(松)



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