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021  〜映画『バトルロワイヤル』に思う〜
2001年02月


残酷表現って何?
〜映画『バトルロワイヤル』に思う〜
by 成田 智信


  1月26日、『バトルロワイヤル』という話題の映画が上映をほぼ終了しました。(一部ロングランあり)中学生同士が殺し合うという内容について国会議員からも指摘され、映倫もR15の指定をつけて上映するという物々しさでした。しかし、公開してからは、残酷表現と取りざたされた映画のはずなのにうち切られることもなく、大ヒットを記録し、当初の公開日程から延期して上映され最終日を迎えました。ご覧になられたでしょうか?

  僕は、映画を見てラスト涙が止まりませんでした。「信じること」の難しさを生死の極限でよく見据えて、映像にされていたと思います。友達が死ぬ、恋人が死ぬ、大切な人が死ぬということを正面からとらえていたとおもいました。

  残酷表現って何でしょう?例えば、画面に現れる血しぶきのことでしょうか?銃撃戦のことでしょうか?何も知らない子供たちに、血しぶきを見せることが良いことだと決めつけたりはいたしません。しかし、残酷表現でなければならなかった必然性を見つめることなく、表現ばかりにとらわれることで、作品全体の訴えたかったことが見えなくなることが多々あると思います。

  『プライベート・ライアン』(戦争シーンがかなりリアルに描かれていました。これも感動的な考えさせられる映画でした。)という映画を見にいったとき隣の席にいた高校生くらいの学生が、「全然怖くないじゃん」といって立ち上がったのを覚えています。

  私たちは、感覚的な痛みを共有することができません。しかし、様々な痛みは今そこにあるのです。痛みを感じている人とその痛みを感じることのできない自分がいる。悲しい現実です。しかし、そんな現実の中で、人の痛みをゲームの様に扱うのか、人の痛みを正面から受け止めるのか、ここに大きな違いがあるように思います。少なくとも『バトルロワイヤル』は人の死を正面からまじめにとらえようとしていたと思います。

  共有する事のできない痛みを抱えたまま、だれもわかってくれないと痛みを疑いにかえるのではなく。分かち合うことのできない現実を正面から受け止め、痛みを共に見つめてくれるまなざしの中で、疑いをうち破って痛みが絆となる。ここに、生きる力が沸いてくるのではないでしょうか。共に痛みを見つめるということは、どんなことがあっても、逃げないことであり、どんなことがあっても変わらない事であり、どんなことがあっても、虚しく終わらせないということでありましょう。そして、死は敗北ではないと言い切ってゆくことでありましょう。

  私たちはもっと生死を語らなければならいと思います。過去の体験の有無の問題ではなく、いずれ死ぬという未来の予言でもなく、今現実を生きるものとして、今死を抱えるものとして、今の自分に生死を語りかけたいと思います。







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