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025  「千と千尋の神隠し」
2001年08月

「千と千尋の神隠し」
by いしかわ ちほ


 不思議な世界に入り込んでしまった小学生の千尋は両親をブタに変えられ、自分の身もいつ動物に変えられるかわからない状況のなか、やさしさと思いやりで苦難を乗り越え元の世界に帰っていく。少女の成長物語。私はそんな情報を持ってこの映画を見にいった。

 宮崎駿作品らしいノリで物語は進む。話の筋は「やっぱりね」という感じがしたが、そこにはたくさんの現代日本・日本人への皮肉や警告、現状がちりばめられており、かなり興味深かった。

 「名前を奪われる。名前を忘れてしまう」外見ばかりにとらわれて自分自身を見失う私達。物事の本質をとらえることができなくなっている私達。名前はそのものの個性を示すのかも知れない。「八百万の神様」 森羅万象に敬意を払っていた昔の人々とそうでなくなりつつある私達。「いのちをかけて誰かを守る」自分さえよかったらあとはどうでも良い私達。「私を助けてくれたから今度は私が助ける」思いやりの心を忘れた私達。「汚れた川の神様の中から出てくるゴミの山」川に物を捨て自然破壊をしている私達。「西洋の魔女が日本建築のお風呂やさんのドンで、使用人は日本の着物風制服を着用した蛙や妖怪。金太郎さんのような前掛けをした魔女の孫は天蓋のあるお姫様風部屋に住んでいる、などなど」まさに今の日本!いろいろな文化を受け入れ日本文化に取り入れている。日本の欧米化。親が思うほど子どもではない子ども。たくさんの玩具を与え、猫かわいがりしすぎの親たち。

 挙げるときりがないくらい、このお話にはまだまだたくさんの思いがこめられている。そして見る人によってさらにたくさん何通りにも思いをくみ取ることができるだろう。

 八百万の神様が出てくるが、これは神道を敬え、という話ではなく、自然を敬うとか、人間の小ささを認識するとか、そういったことを伝えたいのだと思う。

 私達現代の者にとって、神道も仏教もキリスト教も言い伝えも古来の風習もごちゃ混ぜになって捉えられていることが多い。というよりもそのいずれにも重点を置かず、自分の宗教とか信じるものを持たないのかもしれない。見えるものしか信じない。そんな風潮の中でこの映画は見えないものへの畏敬の念や人と人、人とあらゆるものの繋がりの大切さを感じさせてくれる。

 失いつつある物、純粋なこころ、みんながそれを取り戻せたらどんなにいいか。そんな思いを、これでもか!というくらい見せつけられた宮崎駿の世界だった。





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