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030 伊東忠太氏展
2003年2月

伊東忠太氏の展覧会


 日本建築学会が、建築博物館の開館を記念して、博物館が所蔵する伊東忠太資料の展覧会を開催しました。建築博物館とは、建築関係の図面や文書、写真をひろく収集・保存・整理・研究・展示するための永続的な施設として建築会館内に設立され、この種の博物館として日本で最初となるそうです。そしてその記念すべき第1回目の展示が、伊東忠太氏のご遺族から、日本建築学会へ寄贈された伊東忠太氏の個人的資料をもとにしたものでした。館内の展示は、原資料やパネルの展示、映像などで構成されていました。

 いきなりの建築の話となりましたが、伊東忠太氏とは、築地本願寺を設計された方なのです。築地本願寺以外にも、伊東忠太氏の代表作としては、明治神宮や靖国神社などがあります。実務的建築ばかりでなく、法隆寺の建築について研究されたり、大陸においては雲崗石窟を発見したりと、日本の近代建築の歴史において、多大な影響を与えた人物の一人なのです。

 伊東忠太氏は、慶応3年、医者の次男として、今の山形県米沢市に生まれました。幼い頃は幻視癖があったそうで、奇談、怪談、妖怪変化の類を愛したそうです。こうした幻想趣味は終生消えず、伊東作品といえば、その端々にちりばめられた奇獣、幻獣というのも一つの特徴と言われております。そういえば、築地本願寺にも、いろいろな珍獣がいたような気がします。

 伊東忠太氏の建築デザインは、日本においては日本独自の形があるべきというものでした。伊東忠太氏は明治35年2月、自らの理論を確かめるべく、中国からギリシャへと至るユーラシア大陸大横断旅行に出発しました。そこで伊東忠太氏が見たものは、ヨーロッパとは異なるアジアの各国に現存する、それぞれの風土に根ざした独自の石造建築でした。これにより、石造、煉瓦造とは、すなわちヨーロッパ風デザインでなければならないという必然性が、伊東忠太氏の理論において意味を持たなくなります。そして、日本建築はいかにあるべきなのか、伊東忠太氏は生涯を賭けて日本建築の模索を続けることになりました。築地本願寺とは、そうした伊東氏が晩年、自らの理論の集大成としてつくりあげた大作なのです。築地の街並みに建ちながら、異色の大伽藍。観る人それぞれの好みはともかく、印象の強烈さでは、東京一とも言える建物です。築地本願寺のモデルとなったのは一見して判るとおりインドの仏教寺院でありますが、伊東忠太氏の主義上、相手が東洋であってもその模倣は許されることはありません。伊東忠太氏は、ストゥーパ(仏舎利塔)やインド石窟寺院の外観をモチーフとして組み合せつつ、しかし、その内装の一部には中国の四神像(青龍、朱雀、白虎、玄武)を導入しました。さらに本堂内の景観といえば、一転、伝統的日本式仏教寺院のそれであります。これこそが、建築家・伊東忠太氏の目指した、日本独自の建築に他ならないことでしょう。

 日本独自の建築を追い続けた伊東忠太氏のエネルギーが、伝わってきそうな展示となっておりました。


by 土岐 正信  




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