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034 映画 『デイ・アフター・トゥモロー』
2004年6月

映画 『デイ・アフター・トゥモロー』


  タイトルの示すとおり、この映画は明後日にもそれが迫っている現実として描かれ、そして警告をしているのです。

  公開中につき内容は最小限に控えますが、地球温暖化が急激に加速し、結果として北半球が氷河期のように凍りつくというもの。地球危機を扱った映画としては、隕石ものの『アルマゲドン』(『ディープ・イ ンパクト』も含む)、宇宙人襲来ものの『インディペンデンス・デイ』を加えたビッグ3といったところでしょうか。

  しかし、今回の映画は人類が自ら招いた地球の危機という点で他の2つとは異なり、またその自然の脅威に人間はなすすべがないという形で描かれています。しかし、あまりにも進行が早すぎて、肝心の「ストップザ環境悪化」というメッセージがかえってぼやけてしまうような危惧が残ります(氷河の溶解、太平洋の島の水没、熱帯地方でしか生息しない「蚊」の他の地域での発生などを描いてほしかった)。

  しかし私は、最後にでてくるセリフに、この映画の最大の価値を認めました。ともあれ、忘れてはならないことは、世界の異常気象を前にして、この映画はつくられるべくしてつくられた映画ということであります。



  仏教徒としてこの映画を眺めると、まさにそこには釈尊の教えが生かされていないわれわれ人間の世界が描かれているように思います。

  エコロジーとは「関係性」などとも訳されますが、それは釈尊が2500年前に説いてくださった縁起の思想にほかなりません。

  「あらるゆるものが関係性の中で存在している」「独立した存在は何一つない」ということ、関係性の中で存在しているからこそ、物事すべてに本来は優劣もないはずなのです。ところがそれをわれわれはなかなか理解できない。

  釈尊の説く「縁起」とは、それと対峙する時、われわれの想像力を激しくかきたてるものです。まるで自分を含めた人間の姿を地球の外側から客観的に眺めるような感覚。それが縁起です。その視線を通してみれば、私たちは自分を特別な存在と思いすぎていないでしょうか。

  釈尊が2500年後の未来の環境問題を予想していたかはわかりませんが、欲望に振り回れる人間の姿は見えていたといえるのではないでしょうか。



by 竹柴 俊徳 




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