本の評・紹介ページ
008 本の評 99年4月
本の紹介 ( by 松本 智量 )
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お彼岸のお参りに行った先でお茶をいただきながら、たまたま『五体不満足』の乙武洋匡さんの話がでました。 「あの方、ご本人もすごいですけど、ご家族や周りの方がすごいですよねー」と私が言うと、「そう、お母さんが偉いですよね。でも、ご本人がすごく頭のいい方だと思いましたねー」そして、「あれで重複(障害)だったら、とても・・・」 その方は、ダウン症のお嬢さんをおもちです。乙武さんを見て、肢体不自由を克服している強さに感嘆しながら、でもそれを障害一般に拡げることはできないよ、例えば肢体不自由と知的障害は同じ「障害」ではくくれないよ、世間は知的障害にはもっともっと厳しいよ、という実感をお持ちだということが伝わってきました。 1981年公開だからもう20年近く前になりますが、『典子は、今』という映画がありました。サリドマイド禍により両手が失われた典子という実在の少女が日常生活のほぼすべてをこなしながら明るく生きている姿を本人を主人公にして映画にしたもので、公開当時は大変な話題になりました。たしかこの映画の影響で、肢体障害者に運転免許取得の門戸が開かれたと記憶しています。その映画の主題も「障害は不便ではあるが不幸ではない」というものでした。 映画が話題になりながらもはたしてその主題が世間に受け入れられたかは、それから20年後に『五体不満足』がベストセラーになって「障害は不便だけど不幸ではない」というメッセージが新鮮に感じられることから測ることができます。しかも、このメッセージは、障害者と、彼らを巡る実態を隠してしまう危険性があることも注意しなければなりません。 |
無敵のハンディキャップ 〜障害者がプロレスラーになった日〜 (北島行徳著) 文藝春秋刊 |
この本は、副題にもある通り、障害者プロレスに関わった人々を描いたノンフィクションです。脳性麻痺の慎太郎は参加している演劇活動に大きな不満を持っていました。 「・・・ぼくは、うたがへたなのも、しばいがへたなのも、じぶんでは、わかっては、いるのですね。でも、おきゃくさんは、はくしゅをくれます。なにか、どうじょうの、はくしゅみたいで、いやなのですね」 「善意」のいごこちの悪さにいらだつ中で、ひょんなことから彼らは障害者として客の前でプロレスをする、という道を発見するのでした。筆者北島氏はボランティアの健常者として彼らと関わるうちに、「健常者対障害者」という企画で自らリングにあがるはめになって・・・ 大笑いしながらも、障害者が生きる環境について考えされられます。 「障害者と健常者は同じ人間っていう言い方はさ、確かにすごく正しいことのように聞こえるよ。でも、この言葉にオレは大いに疑問を感じるね。それにさ、障害者がそう発言することで、一番喜ぶのは健常者だってことわかっているのか。健常者の方からすれば、同じ人間って言葉は免罪符みたいなもんなんだよ。同じと言うことで、障害者について考えることをやめているのが現状なんだよ。本当は同じでないという事実から、目を背けているんだよ」(同書P.96) 同書の最後の一文は、ぜひ購入してお読みいただきたいのですが、 |
人間は一人である。親や兄弟、友達や恋人、どんなに親しい人のことだって完全に理解することなんかできない。では、他人の存在は、まるで意味がないのだろうか。 そんなことはない。 手を伸ばしたらするりと逃げる風船のように、叩いても叩いても開かない鉄の扉のように、他人の心は思うようにならない。けれども、離れているから繋がろうとし、わからないから知ろうとする。人と人との関係はぶつかり合いの繰り返しで、理解できないからこそ面白いのだ。 障害者と健常者の関係も同じである。 障害者の気持ちになって、と健常者が言ったところで、本当のところはわかるわけがない。わかるというのは、健常者の傲慢だ。周囲に保護されて生きていながら、健常者は理解してくれないと嘆く障害者がいる。それは甘えだ。障害者と健常者はもちろん、障害者同士でも感情的なもつれは常につきまとう。しかし、人と人との間には、いろいろとあって当然なのだ。むしろ問題なのは、ぶつかり合うことを放棄して生きることではないか。 障害者と健常者の理想的な関係という問題に、模範解答などあるわけがない。だからこそ答えを探して模索し続けるのだ。何度か飛び上がっていれば、いつか風船を掴むことができるかもしれない。血が出るまで拳で叩けば、重い扉が向こうから開いてくるかもしれない。それが、私たちが障害者プロレスをこれからも続けていく理由であり、観客に伝えていきたいことでもあるのだ。 (同書P.310) |
『五体不満足』に感動した方、しなかった方、どちらも、必読の書。 |
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