本の評・紹介ページ


 011   本の紹介 


『彩花へ「生きる力」をありがとう』
山下京子著  河出書房新社
                                        by 松本 智量

救いの形


   97年に起こった中学生による神戸連続殺人事件。一事件としてはかつてないだけの言説を生んだにもかかわらず、そのいずれもが言葉の至らなさと空しさとを伴わずにはおけないのは、少年の抱える闇の深さが、私たちが作り上げ、支えている社会の闇に通底しているという居心地の悪さが皆にあるからなのでしょう(だからといって少年の罪がいささかも減免されるものでないことは言うまでもありません)。

   そしてまた、言説の多くが興味本位の域を出るものではなく、それにより被害者が新たに苦しむ状況が生まれたことも忘れてはなりません。

彩花が教えてくれたこと

   事件の当事者による初めての手記が出版されたのは犯人逮捕から半年過ぎた、98年1月でした。『彩花へ「生きる力」をありがとう』(河出書房新社)。第一の被害者、山下彩花ちゃんの母親、山下京子さんがあの事件からどう生きたかが綴られたものです。

   ここには被害者としての訴えがあるのは勿論ですが、それはもっぱらマスコミなどからの二次被害に向けられます。一方、A少年を語るときのまなざしは被害者という立場を脱して、驚くほどの深さを見せます。山下さんはこう記します。娘の死を通して何倍も深い人生を知ることができた。そしてその姿勢を教えてくれたのは事件から逝去までの一週間の娘の姿だった、と。



人生を荘厳する方途


   97年3月16日、尋ねられた道を案内する彩花ちゃんの頭部に少年がハンマーを降り下ろしたのは12時25分頃。事件後およそ30分後に病院に運び込まれた彩花ちゃんは、すでに意識はありませんでした。

   生きているのが不思議と医師に言われながら、彩花ちゃんは昏睡状態でいのちの姿を母親に示し続けます。その娘に寄り添いながら、いのちと向き合い、「死」の意味を見つめる日々。その中で山下さんは娘に促されるように気づきを重ねていきます。

   一週間を数え、細い息が途絶えたとき、山下さんの胸にあったのは絶望ではなく、たとえば次のような思いでした。 「生き残った私たちが、どう希望をもって生き抜いていくか。悲劇さえも滋養に変えていけるか。そこにしか、彩花の人生を荘厳する方途はないように思えるのです」。 そして、 「生と死をひとつのものとして力強く受け止めていかなければ、結局、いつまでたっても人間は根本的な不幸の足かせをはずせない」。

   この本の巻末で、山下京子さんは、加害者にむけて「最後にA君へ」と語りかけています。加害者と被害者という関係を超えて発せられたこの言葉を山下さんは「彩花が教えてくれた」、そして、亡くなってまで、私に教えることを忘れない娘に、ただただ感謝の思いが溢れると結んでいます。

   少々長いですが、少年への語りかけを全文引用します。




最後にA君へ

   今、あなたに会いたいような、絶対に顔もみたくないような複雑な思いでいます。私たちの宝物だった、たった一人の愛娘を、あんなかたちで奪い取ったあなたの行為を、決して許すことはできません。

   母であるがゆえに、娘がされたことと同じことをしてやりたいという、どうしようもない怒りと悔しさと憎しみがあります。

   その一方で、これもまた母であるがゆえに、どんなに時間がかかってもあなたを更生させてやりたいと願う気持ちがあることも嘘ではありません。

   一見、相反する感情が、私の心の中に同居していて、その割合の比率は日々同じでないまま、不思議なバランスを保っています。

   もし、私があなたの母であるなら・・・、 真っ先に、思い切り抱きしめて、共に泣きたい。言葉はなくとも、一緒に苦しみたい。 今まで、あなたの眼は母である私を超えて、いったいどこを見ていたのでしょう。私の声があなたの乾いた心に届き、揺さぶることはなかったのでしょうか。あなたが生れてくることを楽しみに待ち、大切に育ててきたのだと教えてきたでしょうか思い切り抱きしめて、温かい血の流れを伝えてきたでしょうか。

   そして、あんな恐ろしいことをしてしまうまで自分を追いつめていくことに、どうしてもっと早く気づいてやれなかったのでしょうか。たった一人の母なのに、どうしてわかってやれなかったのか。

   氷のように冷たく固まってしまったあなたの心。そのうえ、それを深い海の底に沈めてしまった。

   でも、深く暗い海底からそれを捜し出し、ていねいにゆっくりと氷を溶かし、ゆったりとほぐすことができるのは母の愛しかない。とりわけ、母の愛が大洋の温かさで包み込む以外に、道はないと思うのです。

   罪を罪と自覚し、心の底からわき出る悔恨と謝罪の思いがいっぱいにつまった、微塵のよどみもない澄みきった涙を、亡くなった二人の霊前で、苦しんだ被害者の方々の前で流すことこそ、本当の厚生と信じます。

   それまで、共に苦しみ、共に闘おう。あなたは私の大切な息子なのだから。


 
   






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