本の評・紹介ページ


 012   本の紹介 


『彩花へ、ふたたび −   
        あなたがいてくれるから』

山下京子著  河出書房新社
                                        by 本多 静芳

   この本は、同じ山下京子さんの『彩花へ−「生きる力」をありがとう」同社の続編です。松本智量さんが紹介してくださった通り、「神戸の少年事件」で亡くなった彩花ちゃんを一番近いお母さんが、深い目でその事件から死、そして、その死を通して見つめ、出会ったいのちのあり方を世に問うたものでした。身近な人の不条理(と感じられる)死、(もっとも死は意図したものを追う人間にとってつねに不条理でしょう)それを契機に自分、自分と亡き人、そして自分と関わる他者、すなわち他なるいのちとのあり方を深く見つめられた山下さんの「生きる力」は、まったく現代における仏教書であります。私の浅い読み方では、そこには仏教のいのちを見つめる視点と通じる「縁起」観があるように感じられたものの、いわゆる仏教語は皆目みられない書物であったと思います(見落としていたらどなたかご指摘ください)。

   
ところが、今回の「ふたたび」では、具体的な仏教の経典や言葉が散見できます。まず、同じようにこの「神戸の少年事件」で子供を亡くしたBさんとの出遇いが29頁から綴られています。そこで、Bさんと自分の死生観は厳密にいうと違うけれど、輪廻転生という形での永遠性を見つめると書かれます。さらに、平安時代の女性たちが愛した経典として『法華経』が紹介され、女人成仏を説く龍女成仏が書かれます。45頁には、「どうすれば遺された者の生き方に価値が創造できるか」という視点に深い興味を持ち、さらに「生き抜く力を蘇らせるには、智慧が必要でした。頭でわかる『知恵』ではなく、疲れ果てた命を変革していけるような『智慧』です」と語っています。

   さらに、いのちを見つめる深さはそのまま深い道理を体得していくことだとつくづく教えられたのは、71頁からの「本当の幸福」という章です。そこには、仏教の言葉では「業」と表現されてきたことが語られます。しかも、山下さんは、誤った業の使い方を徹底的に見届けて、深いいのちのつながりと自分の立っているところをつなげて見つめています。たとえば、「生きる力」を書いた山下さんのことを「娘の死を運命だと思ってあきらめていると解釈されている人」が時々いたことに首をかしげ、もしそのような誤解を持たせているのなら、きちんと説明をしなければならないといわれているのです。山下さんは、大切な人の死を目の前にしたとき、私たちは、「なぜ死ななければならないのか」という問題をクリアしなければならないといいます。つまり、死の受容です。それができないと永久に混乱したままになってしまうといいます。私の言い方でいえば、救われない、安心できない、良かったなあとこの人生を生きていけないということだと了解しています。山下さんは、運命という固定的なものの見方は、何の努力をする必要もなくなってしまうといいます(75頁)。

   
お気づきのように、これは『華厳経』の中にある「この世の中には、三つの誤った見方がある。もしこれらの見方に従っていくと、この世のすべてのことが否定されることになる。(一つは、運命であるという主張。二つは、神のみわざであるという主張。三つは、因も縁もないという主張です)もしも、すべてが運命によって定まっているのならば、この世においては、善いことをするのも、悪いことをするのも、みな運命であり、幸・不幸もすべて運命となって、運命のほかには何ものも存在しないことになる。したがって、人びとには、これはしなければならない、これはしてはならないという希望も努力もなくなり、世の中の進歩も改良もないことになる。次に神のみわざという説も、最後の因も縁もないとする説も、同じ非難があびせられ、悪を離れ、善をなそうという意志も努力も意味もすべてなくなってしまう。だから、この三つの見方はみな誤っている。どんなことも縁によって生じ、縁によって滅びるものである。(以上、仏教伝道協会『和英対照仏教聖典』89頁より)」という縁起をもとにした世界認識と大変近しいものになっています。

   
さらに山下さんは、そこに「業」というものを見いだしておられます。それを運命論のように私たちの人生を外から縛りつけるものではなく、「自分の人生に起きる一切の出来事を、自分の生命の奥深い部分に関連づけて、『自分が変わればすべては変わる』と見ていく思想」だというのです。そして、「私はあきらめたのではなく、起きてきた現実のすべてを価値あるものに転換する闘いを開始したのです」と言い切り、「『今』の出来事を説明するためには、たしかに過去の原因としての業を考えなければなりませんが、『今』を価値あるものに向けていけば、未来を変革していけるし、結果として『今』起きたことの意味をも変えていけるという人生観です」としています。

   
このような深い生き方を展開されたのは、山下さんが遭遇した意図せざるできごとによって色々なことを見つめる機縁に恵まれたからであり、また山下さん自身が直面する課題の大きさから逃げたり遠ざけたりすることなく取り組まれるようなご縁に恵まれたことがあったのでしょう。しかし、その縁の中でも、この本のコーディネイトをすることになったジャーナリスト東 晋平さんの関わりは非常に大きなものがあります。この人の関わりが『法華経』にも目を向けさせ、あるいは業という縁起の教えからの人間理解の深まりにも出会われたのだと思います。第三章には、東さん自身が筆をとり「絶望から希望をどうつむぎだすか」という文を認めています。そこには、日本の宗教(もちろん仏教)の民衆との関わりを批判的に、そして本来性をどう蘇らせていくのかということを山下さんの営みとの出遇いを通して論じておられます。特に、六道の姿を通して、人間という一個のいのちの中に重層的に「環境に支配された動物的な生」と「環境を乗り越えて人間としての価値を創造する生」を見つめています。山下さんも、自分を含めて人間の内側に潜む「けものの心(獣性)」を見つめています。「詳しくは、是非本を読んでいただきたいと思います。


 
   






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