『彌陀の橋は』
津本 陽 著
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『教行信証』を元にして書いたと言うだけあって、「他力」「煩悩」「悪」を宗教的に深く押さえた「重い作品」となっている。
上巻の帯広告には「煩悩の闇に惑う者。八百年の時を越え、今、親鸞の声を聞け」「浄土真宗の開祖・親鸞聖人。專修念仏への不退転の道を歩み、東国の辺土で、一文不知の人々に極楽浄土への道を説く」と、示し下巻のそれには「迷いの海を漂う者。今よみがえる大悲の光明に目を開けよ」「あえて教団を組織せず、世俗の名声を求めぬ親鸞は、浄土真宗の本義を究める孤高の道を、ただひたすら歩んだ」と。
目次は上巻は「六角堂」「吉水」「本願に帰す」「非僧非俗」「越後の風」「関東へ」「光輪」と続き、下巻は「真実」「正信」「野のいばら」「歎異鈔」「洛中の隠棲」「うほに与ふべし」「口伝鈔」へと進む。
作者は「歴史小説家」と自称するように、その時代背景、社会状況、風俗習慣等を考慮しつつ、慎重に筆を進める。しかし、親鸞聖人・法然上人・天台宗延暦寺の説明で、時代が過去にさかのぼったりするので、読者に少々の混乱を来す。
『梁塵秘抄』『源平盛衰記』『方丈記』『愚管抄』『今昔物語』等を引用して、「都の混乱・風紀の乱れ」を詳説し、また『真俗雑記問答』『夢記』『沙石集』を引いて「夢告」への理解を深く示す。
『観経・弥陀経集註』を著者は天台で記したとするが、法然門下での学究と聞いている。また、「六角堂百日参篭」も文字通り通いではなく、篭もったのであると断定する。
九条兼実の娘任子に仕える女房衆のひとりに三善為教のむすめ「筑前」が居て、この人こそ後の「惠信尼公」であると展開する。「聖覚法印が、親鸞聖人を法然上人に紹介した」と言うのは、斬新な着想でもある。そして、法然門下での「本願他力念仏」の研鑚へと話は進み、法然門下の諸事情が明かされていく。
ついに、「念仏禁止」「師弟流罪」となり、越後・北関東に於ける、沙弥としての「布教生活」が綴られていく。圧巻は「弁円の回心」であり、絶対他力の宣布である。
「承元の法難」から十四年を経て、「承久の乱」が起こり、後鳥羽上皇の盛衰を目の当たりにした。そして『吾妻鏡』の記載のようにしばしば、「大飢饉」に襲われた畿内・北関東であった。
「嘉禄の法難」もこの年に起こり、末法の世を呈した世相であった。浄土門内では「一念義・多念義」「信心か・称名か」の諍論が起こり、真宗内では「造悪無碍計・賢善精進計」が萌芽しつつあった。
そして、六十三歳の「帰洛」となる。その理由を著者は「京都に帰り、ふたたび無名の念仏者として、法義の研鑚に余命を捧げることが、若き日からあこがれてきた賀古の教信の生きかたに通じるものであると、考えたのであろう」と、言っている。
京の状況の描写が詳しい。そして、親鸞聖人と惠信尼の別離は「生活の困窮」にあると、指摘する。
218頁〜256頁までは著者の『歎異鈔』解釈が他力を基底として展開されている。
そして、「有念・無念」「一念・多念」の諍論に引き続き、顕在化してきた「造悪無碍」「本願ぼこり」の邪義の抬頭は、長子慈信房善鸞の東国派遣と連なってくる。挙げ句は「義絶」へと向かうのであるが、慈信房善鸞の立場は「賢善精進計」に位置したと著者は指摘するが、この点、真宗史の宮崎圓遵師の指摘とは異なる。
296頁からは、筆者の実体験を踏まえて、『正信偈』の響きと、親鸞聖人の自己内省の深まりを追って、人の「偽善」を追求していく。
その追求は『自然法爾』へと結実していくのである。
最後に、『惠信尼文書』を引用して、その時代の「困窮の有様」を伝え、『口伝鈔』を引用して「信心正因・称名報恩」と、「凡器の在りよう」を丁寧に披瀝している。
読売新聞の4月3日版に筆者は「宇宙とは、生命とは、魂とは・・・・。われわれには分からないことだらけです。しかし、そういう原初的な問いがある限り、宗教の意味がなくなることはない。最近は、さほど死ぬのが怖くなくなりました。結局は幾多の先祖が拝み、自分の毛穴にしみこんでいるものに落ち着くしかないのだと思います」 「しかし、念仏も私の代までかなぁ」。土地に根ざした信仰が失われてゆくことに、寂しい表情も見せたと、石田記者は書いている。
私達の責任は軽くはない!
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藤田 恭爾 |
POSTEIOS研究会 |
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