かつて浄土真宗寺院の法座を栄えさせ、満堂に念仏を響かせ、多くの妙好人を生んだのは高邁な教説や教義書ではなく、説教師の功績によるのは疑いあるまい。中でも名調子で知られる「節談(ふしだん)説教」は落語や講談や浪曲の原点と言われるが、今やその場にを知る者は少なく「節談説教」とはどういうものかイメージすることも難しい。講談(自体が馴染みが少なくなっているが)のようなものかと想像していたところ、本書の著者谷口氏が持ち出した例は綾小路きみまろ。彼が扇子を中啓に持ち帰ればそのまま説教になる、と喝破する。
たしかに綾小路の漫談の毒は身もふたもない真実だからこそ笑ってしまい、それでいて自らを高みに置かないことから抵抗感なく受け入れられた。それ自体説教の特質ではないか。
寺を盛況にした節談が廃れた理由は複数あげられよう。非常識な譬喩や因縁話を用いたことも一因と谷口氏は認める。しかしそれをもって節談という手段を丸ごと捨て去ったことの大きな失は、法座から念仏が消えたことに象徴されるように、肉体性の喪失と言えるのではないか。それはつまりユーモアの喪失であり、笑いの喪失である。悦びの喪失と言ってもいい。
「声に出して読みたい日本語」に始まる朗誦の再興はすでに定着したようだ。肉声によって韻をふんだ名調子が快感を呼ぶことを体験した今こそ、かつての「節談」がもたらした法悦を正しく評価できるのではないか。本書にはその名調子も多数収めてある。布教に立つ者に限らず、ぜひ、声に出してお読みいただきたい。
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