宅間守に死刑が執行された。
8人を刺殺し、児童13人と教師2人に重軽傷を負わせた彼には、現行の法に従う限り死刑以外の刑は考えられまい。その執行も当然視されよう。しかし、それにざわりとした異物感を禁じ得ないのは、宅間が自ら死刑を望んでいたという事実があるからだ。
この死刑はただ自死幇助にすぎないのではないか。それは宅間の、公判上で見られた偏狭で低劣な世界観を丸々肯定してしまったことにならないか。
それでも良いと言う人はいよう。遺族の感情を思えば、と。
ここで問いたいのは死刑制度ではない。それを支えると言われる「遺族感情」だ。
死刑執行に、あるいは死刑制度にちょっと立ち止まろうとする人々へたびたび「遺族の気持ちになれ」という罵声が向けられる。しかし、「遺族の気持ちになる」とはどういうことか。それができるのか。それはとんでもなく傲慢なことではないのか。
『弟を殺した彼と、僕』原田正治著(ポプラ社)は、弟を保険金搾取のために殺害された著者の、死刑廃止運動に関わりながらの葛藤を記した記録である。
著者原田氏は犯人を君づけで呼ぶ。すると「犯人をなぜ君づけで呼ぶのか」と質問をされるそうだ。それに応えて「では、あなたはどうして呼び捨てにするのですか」「あなたは、僕が彼を憎んだほどに、人を憎んだ経験がありますか」「あなたは、僕以上に、彼を憎んでいるのですか」
弟を殺した加害者と向いあおうとする著者の思いは憎しみだけではない、しかしそれを赦しと呼ぶのもあまりに遠い。死刑を問う運動へ複雑な心のままに加わる著者の彷徨は、単なる綺麗事の人道主義や恩寵主義ではない、生の引き受け方への問いそのものと知らされる。
われわれはなぜ、犯罪被害者の気持ちが分かるつもりでいるんだろう。分かるという傲慢は分からないという冷徹と同類だ。分かったつもりになるのでもない。分からないと放棄するのでもない。すべきは、耳を傾け続けることしかない。「犯罪被害者」というレッテルを外した一人の人の声を。
いやそれにしても、ポプラ社は本当にどうしちゃったんだ。新潮ノンフィクション賞を受賞した『獄窓記』(山本譲司著・これも抜群の面白さ)をはじめガツンガツンと骨のある読むべき本を連発させて。児童出版社からすっかり変身させてしまった凄腕の編集者は何者だ。
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