「分かった気になる」いや、もっと正確に言えば「分かっていると思い込んでいる」ことからボタンの掛け違いが始まる。ことに犯罪に関してはそうだ。
残虐な事件が起きるたびに持ち出される「精神鑑定」「通院歴」。そしてマスコミやネットでは「治安」と「人権」が対立項のごとく扱われる。
加害者が精神障害者だった。あるいは少年だった。そのとたんに匿名扱いされる現状に、加害者の人権ばかり守られて被害者の人権が侵されている、と批難の声があがる。「加害者の人権」と「被害者の人権」を対立項とする、これが妥当かどうかも一度立ち止まってみた方がいい。芹沢氏の二著はそのような二者対立の前提を冷静に見定めていく。
『狂気と犯罪』は「狂気」を日本社会はどう扱ってきたかの省察だ。
現在日本は絶対数でも人口比でも世界最多の精神病の入院患者を持つ国だ。なぜ?それだけ日本が病んでいる?いや、彼我の違いは「狂気」への理解とスタンスなのだ。
犯罪加害者が精神障害者と認定された場合、その加害者は加害責任を問われることはない。それは一見法に守られているようだがそうではない。法から排除されているのだ。それにより「裁判を受ける権利」を剥奪された加害者は、刑を受けるより長い強制入院になる可能性もある。
「法から排除された」ことを一般人は「特権」と誤解する。そして、憎む。法から排除され社会から憎まれる人間に生きる場がどこにあるか。
『ホラーハウス社会』は前著の問題意識を受けて、「少年犯罪」に視点を広げる。犯罪を犯した少年への対処もまた、一般社会からは過剰庇護と批難されがちだ。その批難は妥当性を欠いているというわけではなく、たしかに少年犯罪の扱いは一つの偏りを有している。そしてそれは社会の「狂気」への扱いの偏りに非常に重なるとの本書の指摘は鋭い。
「精神障害者」と「少年」は、近代社会が認めてきた「人間」の定義からはずれるものであり、それには保護がなされなければならないという「高邁な」思想があった。しかし実際には保護は言葉を変えれば管理であり囲い込みであり排除でしかなかった。かくして彼らは姿を消す。
それが曲がりなりにも機能していた時代は社会にとってはまだ幸福だったかもしれない。明白にほころびが見えてきたのは90年代以降だ。この頃から、人びとは「不安」にさいなまされるようになる。
「不安」の根を人びとは見えない犯罪者に狙いをつける。しかしそうか。「不安」を本当に生んでいる者、増殖させている者は誰か。少なくとも後者に属さない者はそうは多くはあるまい。
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