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0068 本の評・紹介


竹中星郎著 『鏡の中の老人』
ワールドプランニング
(1996年初版発行)


 もしあなたの近くにいるご老人が、鏡に写っている自分の姿に向かって挨拶をしたり、話しかけたりしていたらどう思うでしょうか。「ぼけ」や、数年前までは「痴ほう」、現在では「認知症」という言葉が頭をよぎり、自分の関われない人間という認識に落ちついてしまうのではないでしょうか。本書はそのような認識は私たちの知識の不足からくるもので、ここに精神疾患を伴う高齢者に対する誤りがあり、場合によっては症状の改善を妨げ、介護を誤った方向に向けてしまっていると指摘します。私たちが、いわゆる「ぼけ」「痴呆」「認知症」などという言葉でステロタイプにイメージする老人像というものはそれほど単純ではないということがその冒頭の文章※注)からもうかがい知ることができ、本書を読み進めるにつれて、むしろその多様性と、あるいはわれわれの知識の欠如によって起こりうる問題の重大さに驚きをおぼえます。

  少し堅苦しい紹介文となってしまいましたが、著者の視点は一貫して人と人との関係性や、クオリティーオブライフの重視であります。また専門的な用語も頻出しますが、一つ一つ事例を通してわかりやすく使われており、著者の誠実さがその文章のいたるところで感じられ、読後感の爽快さは、この手のテーマには予期していないものであるぶん、いい意味で期待を裏切ってくれています。

  「一切皆苦」という仏教的視点で申せば、人はさまざまなものに怯える存在であると言い換えることができます。特に老人は「孤独感」や「喪失感」といったものを多く感じてるといえます。まさに老いとは喪失であります。そういった環境にある人の視点に立つにはやはり無知ではいられないと感じるとともに、知ることからくる心の余裕、広がりを感じさせてくれる本書であります。是非ご一読くださいませ。


  ※本文冒頭
  痴呆老人のなかに、鏡にうつっている自分の姿にむかってあいさつをしたり、親しげに話しかける人がいます。鏡のそばに立ってボソボソと話しかける人もいれば、怒鳴りつけたり、殴りかかったり鏡をわってしまう人もいます。なぜか、決まって自分の像に話しかけ、他の人の像にはなにもしないのです。また、このような行動は、窓や戸棚のガラスでもみかけることがあります。
 彼(彼女)らは鏡にうつる像が自分だとわからないのでしょうか。たしかに、「この人はだれ」と聞いてみると、困ったような表情で、妹とか、母とか、知らない人などという答えが返ってきます。「これはあなたではないのですか?」と聞いてみても、ほとんどの人は違うといいます。なかには、「私はこんなに年をとっていません」と強く否定する人もいます。
これは、痴呆の老人がテレビのなかのアナウンサーにむかってあいさつをしたり、返事をしたり、火事の映像に驚いて逃げ出そうとすることと同じで、鏡の像と現実との区別がつかなくなったためとも考えられます。
しかし、もしそうならば、鏡にうつっている他人の人の像にも話しかけるはずです。ところが、そうはしません。それどころか、うしろに立つとふり返るのです。ということは、それが鏡だということがわかっているようです。なかには鏡像の左右の区別を正答できる人もいますが、その人でさえも自分の鏡像にむかって話しかけるのです。
このことから、鏡にうつる自分がわからないのではなく、自分であるからこそ、そのような行動をとると考えることができます。
《中略》
これまで痴呆老人のこのような行動については、ぼけているとみなして、それ以上ふみこむことはありませんでした。しかし、その行動をよくみていると、彼らも心的世界をもち、そのなかで生き、現実との接点をもっているということを実感させられます。私たちの目には異常にみえる行動の多くは、痴呆の「症状」なのではなく、生きている世界への反応ととらえるべきでしょう。


紹介者:竹柴 俊徳  
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