国立追悼施設案議論でまず興味深い点は、いわゆる従来で言う右翼・保守陣営と左翼・革新陣営が共に強い反対姿勢を打ち出したところにある。新追悼施設は普通に考えて靖国神社の代替となりうるものであり、靖国護持を訴える前者の立場からは危機感をもって反対することは当然であろう。さて後者は、追悼に国が関わること自体を個人の精神の蹂躙及び収奪と見て断固拒否をするという立場をとる。それは一定の説得力を持ちながらも、結果として世間的には靖国の地位保全への加担となることに忸怩たる思いを持たないでいることは難しいのではないか。
またこの議論は本願寺派においては、民間の新施設推進団体に総長が加入したことによる手続き是非論も加わった混乱によって、実質的な議論が困難になったのも不幸なことと言わざるをえない。
本書『戦争と追悼』はそういう状況に対して、靖国公式参拝に反対する立場から国立追悼施設の可能性を検討した初めての書として注目に値する。
本書稲垣論文では新施設に反対する保守・革新両派共に「他者感覚」を欠落していると批判し、互いに異質な「他者」が共存する「公共」の場の必要を提唱する。「公共」という観点では池田論文でも、従来の反靖国陣営の国家論を狭小と指摘しながら「宗教者としての自己の信念に反する『政治決着』がされないよう、政府を監視するとともに、必要とあれば『代案』を提示すべき」と訴える。また、書題にある「追悼」について、本多・菅原論文ではその行為の持つ深さへの再認識を求める。
靖国及びヤスクニを脱する方途の叩き台として、あるいはあまりに少なすぎる真宗者の国家論の切り口として本書の価値は大きい。
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