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131 国政選挙と宗門代表

 1、「宗門特別推薦」
 新聞報道(『中外日報』2007年3月20日)によると、さる3月16日、浄土真宗本願寺派宗務所において「宗会議員懇談会」が開催され、国政選挙における候補者への宗門推薦のあり方について協議が行われた。
 その折り、総局より7月に予定されている第21回参議院議員選挙に「宗門特別推薦」として、浄土真宗本願寺派僧侶であるF氏を擁立したいと提案された。F氏自身の「私の政治信条」も披露され、質疑応答では門徒宗会議員より「F氏は、なぜ民主党なのか」「宗教者は宗教活動をすべきであり、宗教者は政治に口を出さない方がよい」などの意見が出た。
 今、なぜ「宗門特別推薦」なのか。その背景には、昭和58年(1983)に参議院議員全国区選挙が廃止され拘束名簿式比例代表制になったが、平成13年(2001)の参議院議員選挙より、比例代表制でも個人名の投票が可能になったこともあろう。
 かつて昭和49年(1974)の参議院議員選挙のときも宗門代表を自由民主党から擁立し、全国31の教務所を通じて、一万の本願寺派寺院で後援会活動を展開したが、当選には至らなかった。その時も、国政選挙に宗門代表を擁立することについて異論百出した。
 昨今の宗教界を取りまく政治状況は、公益法人制度改革関連三法が成立し、今後、宗教法人の税制改革が議論となることが必然であり、かつ、靖国神社の国家護持・首相閣僚の靖国神社への公式参拝問題、国立戦没者追悼施設新設問題をはじめ、憲法改正、脳死臓器移植法の改正、尊厳死法案など、宗教関連の懸案事項と法律案が目白押しの状況にある。このような折り、国政選挙にかかわり政策提言することも、宗教教団における社会参加の一つとして積極的に評価されてもよいように思うが、事はそう簡単に運ばないようである。
 なぜなら、真宗教団における政治への対応は、戦前の国家への妥協、国家主義的な仏教理解への反省から、国家にすり寄ると結局宗教は政治に利用されてしまう≠ニか、また、戦後のマルクス主義的・啓蒙主義的発想から、権力は悪であり、政治は利権である。宗教者はそうしたものから遠ざかるべきである≠ニ、宗教者が政治に関わるのは宗教の本質的問題ではなく、あくまでも二次的な問題とされてきたからである。



2、宗教の社会参加に関する理論

 3月中旬、F氏後援会よりF氏のポスター(街頭演説会案内・討議資料)が全国の寺院に送られてきた。ある勉強会の席上、坊守いわく、「総長の推薦状も出ていることだからF氏に投票はしますが、本堂にF氏のポスターを貼るのは遠慮します」と。つまり、個人的にはF氏に投票するが、本堂という門信徒をふくめた不特定多数の人が集まる公的な場所にF氏のポスターを貼ったり、門信徒にF氏に投票してくれるよう頼むのはイヤということである。他の坊守も同様の意見であった。
 先の門徒宗会議員の「宗教者は宗教活動をすべきであり、宗教者は政治に口を出さない方がよい」や、坊守の「総長の推薦状も出ていることだからF氏に投票はしますが、本堂にF氏のポスターを貼るのは遠慮します」という発言は、宗教社会学における世俗化理論でいわれる、「宗教の私事化説」「宗教の機能分化説」に当てはまる発言である。
 この宗教の「私事化」「機能分化」に立脚した宗教理解が、宗教者が政治に積極的に関わることを妨げている要因の一つとも考えられる。
 宗教の「私事化」「機能分化」は、宗教と近代社会との関係を考える場合のキーワードである。すなわち、世俗化理論からすると宗教は近代社会において、その社会制度に及ぼす影響力を喪失し、公的な領域から私的な領域へ移行していくという。さらに、宗教は社会に対する統合機能を失って、政治、経済、教育などと同じく社会制度の一つのサブシステムになっていくという。そして、人間の自由、特に信教の自由を守るためには、公的な領域から宗教や宗教的価値観を排除すべきであるという。
 こうした宗教の「私事化」「機能分化」の観点からすれば、宗教者が国政選挙に積極的に関わるのは、国家権力へのすり寄り≠ゥ、さもなければ、祭政一致主義の復活だ≠ニなる。
 しかし、こうした世俗化理論に対して、宗教に公的な役割を認める理論もある。特にホセ・カサノヴァは宗教の「私事化」と相反する、宗教団体による政治や社会活動への参加を「脱私事化」であると主張する。
 ランジャナ・ムコパディヤーヤは、カサノヴァの「脱私事化」を説明して、次のように述べている。

 「脱私事化」とは、「世界中の宗教的諸伝統が、近代化論や世俗化論によって当てがわれてきた周縁的で私的な役割を受け入れることを拒否しつづけている、という事実を指してのことである。本質的に宗教的であったりあるいは宗教の名においておこる社会運動の中には、もっとも世俗的な領域である国家や市場経済の法秩序と自律性に、異義を申し立てるものが現れてきている。似たようなことだが、宗教的な諸機関や諸組織は、個人の魂の世話という羊飼いのような仕事に甘んじることを拒否し、私的道徳と公的道徳の間の関係についての疑問を呈し続けている」と述べている。(中略)要するに、カサノヴァの言う、宗教の「脱私事化」とは、現代の宗教が私的領域のなかに割り当てられた場所を超越して、論争や討議によって公的領域に入っており、私的領域と公的領域の境界線を引き直しつつある、という現象を指している。(ランジャナ・ムコパディヤーヤ『日本の社会参加仏教』東信堂、2005年、19頁〜20頁)

 このカサノヴァの「脱私事化」の観点に立てば、「宗教的な諸機関や諸組機は、個人の魂の世話という羊飼いのような仕事に甘んじること」なく、積極的に政治的課題にも関わるべきであるとなる。
 私は真宗教団がこれまで国政選挙への関与について消極的であったのは、@戦前の国家への妥協、国家主義的な仏教理解への反省、A世俗化理論における宗教の「私事化」「機能分化」の観点からの宗教理解、などに要因があるのではないかと考えてみた。
 たしかに、@戦前の国家への妥協、国家主義的な仏教理解は反省すべきである。だから「脱私事化」といっても、戦時中の「念仏=護国」論にみられるような、国家(政治権力)に迎合的な社会参加は支持し得ないであろう。また、A「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』後序)であり、「往生は一人のしのぎなり」(『蓮如上人御一代記聞書』末171)でもあるから、「宗教=私事」という等式が全く間違いであるということでもない。
 こうしたことから今日、真宗者における社会参加は、「念仏=護国」にみられる国家(政治権力)に迎合的な社会参加への批判的視点と、「宗教=私事」という等式を否定しないという、最低この二つを前提としなければならない。



3、「宗教の公益性」論議は回避できない

 さらに、ムコパディヤーヤは「近代における仏教の社会参加」について、次のように述べている。

 近代化や世俗化とともに、宗教は政治、経済、教育など社会制度の道徳的規範としての機能を失い、一つの社会のサブシステムとなっていく反面、宗教的機能を純化していくというのが機能分化説の立場である。それに対して本書は、近代における宗教は、社会全体を倫理的に統合する機能をなくしても、宗教的機能のみが純化したわけではなく、宗教は一つの社会サブシステムとして、政治、教育、福祉などの対社会活動を通じて他の社会サブシステムと関与(エンゲージド)している、と考えるのである。(『日本の社会参加仏教』298頁)

 「宗教の機能分化説」からすると、現代社会において「宗教は一つのサブシステム」としてあるという。言い換えれば、宗教は政治や教育や福祉と同列の立場にあるということである。このことは深く自覚されねばならない。
 なぜなら、宗教が国家・社会の倫理的統合機能としてその役割を果たしているならば、「念仏を称えているだけで世界平和が実現する」かもしれない。また、阿弥陀仏による「親鸞一人」の救いが、そのまま不特定多数の人々の救済を意味する「宗教の公益性」であると主張することも可能かもしれない。しかし、宗教も教育も福祉も同列の立場にある現代社会においては、「親鸞一人」の救いはあくまで親鸞という「個人の救い」でしかない。異宗教・反宗教の立場の人にとって、阿弥陀仏による「親鸞一人」の救いが、そのまま「宗教の公益性」であるとの主張は受け入れられない。
 ハンナ・アレントは、その著『人間の条件』(ちくま学芸文庫、1994年、89頁)で、ギリシャやローマにおいて宗教や政治は公的領域に属し、富の蓄積や芸術および科学への献身などは私的領域に属していた、と指摘している。
 しかし、今日の日本にあっては、「宗教者は宗教活動をすべきであり、宗教者は政治に口を出さない方がよい」「総長の推薦状も出ていることだからF氏に投票はしますが、本堂にF氏のポスターを貼るのは遠慮します」などの門徒宗会議員や坊守の発言から知られるように、宗教は国家・社会の倫理的統合機能としてではなく、一つの社会のサブシステムとしてしか機能していない。
 国家(政治権力)に迎合的な社会参加への批判的視点を持した「脱私事化」と、「宗教=私事」という等式を前提とした浄土真宗理解からすれば、真宗者が国政選挙に関わるのは、浄土真宗の充分条件をみたすことにはなっても、必要条件をみたしたことにはならないかも知れない。
 しかし、宗教が公的領域に属していたギリシャやローマの時代ならいざ知らず、「宗教は一つのサブシステム」でしかない現代社会にあって、「宗教=私事」という私的世界に引きこもり、「政治、教育、福祉などの対社会活動」への参加を回避するならば、もはや浄土真宗は不特定多数の人々に有益であるという「宗教の公益性」を主張することは不可能であろう。


仲野光圓 2007.04.01