2000/03/01
「約束」

  私たち人間の世界は約束事の世界です。その時代時代の約束(法や道徳)によって社会生活の秩序を保っております。みんなに平等でみんなが安心できる約束があればいいのですが、長い歴史の中では権力者や一部の人間の都合によって約束事が定められました。

  たとえば江戸時代の士農工商、あるいは男尊女卑といった差別制度です。明治になって士農工商の 身分制度は改められましたが、今なお「先祖は武士であった」と差別制度の上に成り立った地位に誇りを持つ人がおります。逆にそのような過去の為 政者によって作られた差別思想を容認する人たちによって結婚や就職の自由を奪われ、あるいは蔑視の言葉を投げつけられて人間としての尊厳を踏みにじられている人々も数多くおられるのです。

  また、「先祖の霊が迷っている」などと死を勝手にゆがめ、死者をケガレと見たり、慰霊やお祓いをしなければならないとする約束事や、方角や日に良い悪いを付けた暦に頼って行動しなければならないとする約束事に怖れおののいている人もたくさんおります。

  親鸞聖人はそのような約束事をウソ偽りの約束事と見抜かれ、人間の真の平等と自由をお念仏の中に見い出されました。

  歎異抄では「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもってそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします(煩悩をしっかりと持っている我々の、火に包まれた家のような、すべてのものがたちまちのうちに変転する世の中は、全部が全部そらごと・たわごとであってまことと言えるものがない、ただ阿弥陀如来の心である念仏のみが真実と呼べるものである)」と述べておられます。

  人間の作ったものはすべてそらごと・たわごとであるのは何故か。それは人間の勝手な分別心という煩悩から出来たものであるからです。

  人間に優劣を付け、生や健康を優れたものとし、死や病気を劣ったものと決めつける、あるいは方角や日に善悪を付けては自らの行動を束縛している、果ては地球や宇宙も人間の欲によって食いつぶされないとも限りません。それらは人間の勝手な分別心という煩悩によるものですが、そのことに気づかずに悩み苦しんでいるのが凡夫という我々の生きざまです。

  ところが阿弥陀如来の心であるお念仏は、我々の考えや思いが人間の勝手な作りものであることに気づかせてくれます。人間に優劣は付けられない、生と死、健康と病気などをことさら対立的に捉えるものではない、方角や日の善し悪しを気にせずに自由に行動せよと呼びかけ、本当に充実した人生を送る智慧となってくださるがお念仏なのです。

  阿弥陀如来の心であるお念仏をいただいたものは変わります。煩悩だらけではある が煩悩を肯定しない生き方へと変えられるのです。

  偏見や分別・差別を見抜き行動する私へとです。

橋本 正信  

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